宣誓拒否聖職者問題
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「聖職者民事基本法」の記事における「宣誓拒否聖職者問題」の解説
1790年11月26日、議会は全国の聖職者は2ヶ月以内に宣誓を行うものと決め、翌日に全国に通達を発して、これが強制であり拒めないものであることを示した。ところが、宣誓を拒否した聖職者は、洗礼授与、結婚、埋葬、聖体授与、告白、説教など、あらゆる公共の儀式が禁止されると警告していたにもかかわらず、12月26日に正式に公布されると、聖職者の議員の約3分の1だけが宣誓を受け入れ、過半数は拒否した。全国でも抵抗は広がり、司教は7名だけは宣誓に応じたが、残り全員が宣誓を拒否し、司祭の約半数も宣誓を拒否した。 このような情勢でも聖職者たちは和解の道を模索していた。しかし1791年3月10日と4月11日の親書で、教皇ピウス6世が明確に民事基本法と人権宣言の精神を否認して反革命の立場を鮮明にしたことで、対立は決定的となり、努力は水を差されることになった。欺かれたボワジュランらは茫然自失となったが、この親書は一般への公開をためらうような棘のある内容であったので、1ヶ月以上も秘密にされ、何とか修復を謀ろうとフランスの司教は総辞職を申し出て、却下された。国家と教会の分裂は避けられない情勢となり、5月には、フランスは駐ローマ大使を引き上げさせ、ローマも教皇使節をパリから引き上げさせて、公に断交状態となった。 左図のように、数県ではほとんどすべての聖職者が宣誓を拒否したので、それらの地域では儀式を中止せざるをえなくなった。議会は、これらを宣誓した聖職者に代えようとしたが、代理の数が間に合わなかったので、結局は宣誓拒否聖職者が儀式を続けることを認めた。最初の立憲派聖職者は、前司教から聖職相続を得なければならなかったが、旧司教のうちタレーラン司教ただ1人が祝聖を与えることを承諾し、皮肉にも不道徳で有名だった彼の手で多くの司祭が次々と叙階された。聖職者のなり手も足りなかったので見習い期間が短縮され、立憲派聖職者は急造されていった。 議会は、はじめのうち自らが招いた教会の分裂を認めようとしなかった。しかし新選の立憲派司祭と旧宣誓拒否司祭は方々の教区で対立し、信徒を巻き込んで大きな騒乱となっていた。洗礼、結婚、埋葬の登録簿は立憲派聖職者だけが持っていたので、宣誓拒否聖職者のもとに通っていた信徒は公民権登録ができなかった。特に信心深い女性が立憲派司祭のミサに行かなかったので、彼女らの子供には公民権が与えられない状態であった。国民衛兵はしばしば宣誓拒否聖職者のもとのミサに通い続ける女性たちを嘲弄し、鞭打った。有力者であったラファイエット夫人 (Adrienne de La Fayette) はこのような状況に我慢ならず、パリに新司教ゴベルを迎えることを拒み、夫であるラファイエットは「89年クラブ」の仲間と相談して、宣誓拒否聖職者にも礼拝所を持てる自由を与えるように議会に提議した。1791年4月11日、議会は宣誓拒否聖職者が閉鎖寺院を使って礼拝をすることを黙認する決議を出した。さらに5月7日、議会はシェイエスの提案で信仰の自由を全般的に認める寛容令を出した。これによって宣誓拒否聖職者の信仰も認められることになったが、こうなると今度は立憲派聖職者が怒り出した。これはローマ教皇に逆らってまで革命に殉じようとした彼らの努力を全く無駄にするものであり、信徒の多くが彼らのもとから離れていったからだ。立憲派聖職者はジャコバン・クラブに集い、官憲と協力して5月7日の礼拝の自由が適用されるのを妨害した。他方、ピウス6世もさらに介入し、シムルタネウム (Simultaneum) が普通になった時代に、あえてローマ派聖職者(宣誓拒否聖職者)に立憲派聖職者と同一の寺院内で礼拝することを禁じた。
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