宣譲王時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 16:42 UTC 版)
「テムル・ブカ (淮王)」の記事における「宣譲王時代」の解説
天暦2年(1329年)、改めて即位したジャヤガトゥ・カアンに対し、テムル・ブカは既に甥のボロト・ブカが成長したため、自身の鎮南王位を譲りたいと申し出た。ジャヤガトゥ・カアンはテムル・ブカの申し出を受け容れてボロト・ブカを新たに鎮南王に封じる一方、テムル・ブカを改めて宣譲王に封じ褒寵を示した。ただ、このようなテムル・ブカへの厚遇は前述した天暦の内乱時の功績によるものと見られている。 ジャヤガトゥ・カアンの死後、リンチンバルを経てトゴン・テムルがウカアト・カアンとして即位したが、朝廷の実権はバヤンに握られていた。バヤンは諸王の勢力を削減しようと企み、モンケの末裔のチェチェクトゥを謀殺した他、テムル・ブカとコンチェク・ブカ兄弟を罪に陥れ王位を剥奪した。このようなバヤンの専権に不満を抱いていたウカアト・カアンは、バヤンの甥のトクトを起用してバヤンを左遷し、トクトによってテムル・ブカとコンチェク・ブカは復権を果たすことができた。 テムル・ブカが復権を果たした至元元年(1335年)には廬州・饒州の牧地を下賜された。これ以後、ウカアト・カアンの朝廷においてテムル・ブカは有力諸王の一人として扱われ、淮西地方に出鎮した。至正11年(1351年)より始まった紅巾の乱討伐にも功績を挙げ、至正12年(1352年)には賊を平定した功績によって下賜を受けている。
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