宣陽門院の後見とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 宣陽門院の後見の意味・解説 

宣陽門院の後見

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:00 UTC 版)

源通親」の記事における「宣陽門院の後見」の解説

文治5年1189年10月16日、通親は後白河院久我邸に招いて種々の進物献上した。通親はさらに12月5日後白河院の末の皇女覲子内親王)が内親王宣下を受けると勅別当補され後見人となり、生母である丹後局との結びつき強めた建久2年1191年6月26日覲子内親王院号宣下受けて宣陽門院となると、通親は宣陽門院執事別当としてその家政掌握し院司子息の通宗・通具を登用する宣陽門院建久3年1192年)の後白河院崩御に伴い、院領の中で最大規模長講堂領を伝領したが、これを実質的に管理した通親は、院領を知行する廷臣を自らの傘下組み入れ大きな政治的足場を築くことになる。 通親は建久元年1190年)の頼朝上洛において、頼朝右近衛大将任官の上卿を務めるなど関東歓心を買うことも忘れなかったが、頼朝腹心大江広元との関係強化図り建久2年1191年4月1日慣例破って広元明法博士左衛門大尉任じている。 法皇崩御により九条兼実後鳥羽天皇後見擁して朝政主導するが、故実先例厳格な姿勢門閥重視人事中・下貴族反発招き、しだいに朝廷内での信望失っていった。通親は兼実に冷遇されている善勝寺流勧修寺流貴族味方引き入れ丹後局通して大姫入内を望む頼朝働きかけ中宮任子入内させている兼実との離間図った建久6年1195年11月権大納言昇進し、さらに自らの養女・在子が皇子為仁、後の土御門天皇)を産んだことで一気地歩を固めた通親は、建久7年1196年11月任子内裏から退去させ、近衛基通関白任じて兼実を失脚させた(建久七年の政変)。

※この「宣陽門院の後見」の解説は、「源通親」の解説の一部です。
「宣陽門院の後見」を含む「源通親」の記事については、「源通親」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「宣陽門院の後見」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「宣陽門院の後見」の関連用語

1
6% |||||

宣陽門院の後見のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



宣陽門院の後見のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの源通親 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS