宣陽門院の後見
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文治5年(1189年)10月16日、通親は後白河院を久我邸に招いて種々の進物を献上した。通親はさらに12月5日、後白河院の末の皇女(覲子内親王)が内親王宣下を受けると勅別当に補されて後見人となり、生母である丹後局との結びつきを強めた。建久2年(1191年)6月26日、覲子内親王が院号宣下を受けて宣陽門院となると、通親は宣陽門院執事別当としてその家政を掌握し、院司に子息の通宗・通具を登用する。宣陽門院は建久3年(1192年)の後白河院崩御に伴い、院領の中で最大規模の長講堂領を伝領したが、これを実質的に管理した通親は、院領を知行する廷臣を自らの傘下に組み入れて大きな政治的足場を築くことになる。 通親は建久元年(1190年)の頼朝上洛において、頼朝の右近衛大将任官の上卿を務めるなど関東の歓心を買うことも忘れなかったが、頼朝の腹心・大江広元との関係強化を図り、建久2年(1191年)4月1日、慣例を破って広元を明法博士・左衛門大尉に任じている。 法皇崩御により九条兼実は後鳥羽天皇を後見・擁して朝政を主導するが、故実先例に厳格な姿勢や門閥重視の人事は中・下級貴族の反発を招き、しだいに朝廷内での信望を失っていった。通親は兼実に冷遇されている善勝寺流や勧修寺流の貴族を味方に引き入れ、丹後局を通して大姫入内を望む頼朝に働きかけ、中宮・任子を入内させている兼実との離間を図った。建久6年(1195年)11月、権大納言に昇進し、さらに自らの養女・在子が皇子(為仁、後の土御門天皇)を産んだことで一気に地歩を固めた通親は、建久7年(1196年)11月、任子を内裏から退去させ、近衛基通を関白に任じて兼実を失脚させた(建久七年の政変)。
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