実らなかった永仁勅撰の議とは? わかりやすく解説

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実らなかった永仁勅撰の議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 10:09 UTC 版)

玉葉和歌集」の記事における「実らなかった永仁勅撰の議」の解説

永仁元年8月27日1293年9月28日)、伏見天皇二条為世京極為兼飛鳥井雅有九条隆博の四名に勅撰和歌集撰集について諮問した。これを永仁勅撰の議と呼ぶ。諮問当日天皇病気不参飛鳥井雅有以外の三名に、撰集下命は何月が良いか、下命形式、歌を撰ぶ範囲、そして当時勅撰和歌集撰集の際に慣例となっていた応製百首詠進勅命はいつ下すのがよいかについて尋ねた下命形式三名とも綸旨によるべきであるとし、応製百首詠進勅命についても撰集下命前後どちらでも構わない意見一致したが、あとの二点については意見分かれた。まず撰集下命は何月が良いかについては、二条為世後撰和歌集佳例倣って10月良いとしたが、京極為兼これまでの勅撰和歌集下命が行われた月が、特に決まりはなくばらばらであることを指摘した上で、特に決まった月に行う決まりがない以上、当月8月)で良いとした。九条隆博は為兼の意見賛同した。 そして和歌集撰集根幹関わる、歌を撰ぶ範囲については、為世はこれまでの勅撰和歌集撰集によって良い古歌あらかた撰び尽くされているので、上古和歌は撰ばず、それ以降和歌から撰ぶのがよいとした一方、為兼は天皇古風尊んでおられるので、上古和歌対象すべきである主張した。ここでも隆博は為兼の意見賛同し結局二条為世京極為兼対立点はともに為兼の意見通り即日これまで勅撰集撰ばれなかった上古以来和歌撰ぶよう、勅撰和歌集撰集綸旨下された。また撰者伏見天皇諮問した二条為世京極為兼飛鳥井雅有九条隆博の四名に命じられた。その後冷泉為相は自らも撰者加わりたい自薦し、二条為世撰者辞退し冷泉為相厳しく批判した上で自らの息子である二条為道撰者にふさわしいと推薦したが、冷泉為相二条為道とも撰者に加わることはなかった。 この伏見天皇勅撰和歌集撰集経緯は、天皇寵臣京極為兼主導する形での勅撰和歌集撰集実現するため、為兼と相談の上仕組んだものと考えられている。もちろん京極為兼単独撰集する形がベストであったが、為兼は和歌宗家御子左家庶流一人であり、単独での撰者とするには無理があった。そこで和歌宗家御子左家嫡流二条為世撰者筆頭立てながら、為兼とともに当時歌道長老であった飛鳥井雅有九条隆博の二名撰者加えることによって二条為世動き封じ込め伏見天皇、為兼の思うよう和歌集作りあげよう考えたものとみられる実際天皇諮問についての為兼、為世の対立点は全て為兼の意見通っていることや、諮問即座に勅撰和歌集撰集綸旨下されたことからもそのように推察できる。 しかしこの時の勅撰和歌集撰集綸旨は実ることがなかった。まず応製百首詠進勅命下されることはなかった。これは永仁期頃は京極為兼主導する京極派和歌実力低く、応製百首実現堪えられなかったのではとの説と、百首詠進の命を下す手続き手間取っているうちに機を逸してしまったのではとの説がある。また歌道家の間では為兼に対す批判高まっており、永仁3年1297年)には、京極為兼和歌痛烈に批判した歌論書、『野守鏡』が書かれた。 そうこうしているうちに、永仁4年5月15日1296年6月17日)、京極為兼権中納言辞任して籠居し、永仁6年1月7日1298年2月20日六波羅探題により拘引された。そして永仁6年3月16日1298年4月28日)には佐渡島遠流となった勅撰和歌集編纂中核を担うべき京極為兼失脚流罪とともに永仁6年には撰者一人九条隆博が亡くなり、また為兼の後ろ盾であった伏見天皇譲位し後伏見天皇即位しそれに伴い皇太子大覚寺統後宇多上皇皇子である邦治親王となった。これにより持明院統から大覚寺統政権交代することは既定路線となった。そして正安3年1301年)には後伏見天皇譲位し伏見上皇治天の君の座を離れて大覚寺統の世となり、同年には撰者飛鳥井雅有亡くなった。こうして永仁勅撰挫折余儀なくされた。 永仁勅撰の議は挫折余儀なくされたが、もしこの時、伏見天皇京極為兼もくろみ通り勅撰和歌集撰集成功したとしても、当時の為兼や伏見天皇和歌水準まだまだ未熟であり、これまでの勅撰集とさして変わり映えがしないか、むしろただ伝統破壊しただけの中途半端なものに終わった考えられる流罪となった京極為兼、そして治天の君の座を離れた伏見上皇中心として、妃の永福門院ら、為兼の歌風信奉する持明院統宮廷グループは、再起期して和歌研鑽深めていった。

※この「実らなかった永仁勅撰の議」の解説は、「玉葉和歌集」の解説の一部です。
「実らなかった永仁勅撰の議」を含む「玉葉和歌集」の記事については、「玉葉和歌集」の概要を参照ください。

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