官吏としてのキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 07:48 UTC 版)
「ナギーブ・マフフーズ」の記事における「官吏としてのキャリア」の解説
1934年に哲学の学士を取得したあと、24歳のマフフーズは父と同じ道を選び、官吏になった。以来、1971年に退職するまでの間、複数の官公庁でさまざまな地位に就いた。最初はフアード1世大学(現カイロ大学)で事務員をした。1938年にはアウカーフ省(英語版、アラビア語版)というワクフ(公共財)を管理する役所の政務官になった。 1945年、33歳のマフフーズは、ガマリーヤ区の自分の生まれ育った家のすぐ近くにあるグーリー・ハーンカー(英語版、アラビア語版)内の図書館への転属を希望する。マフフーズはそこで、「優良資金貸付計画」の一環として、幼い頃から見知ったこの界隈の隣人たちと世間話をするという仕事を受け持った。グーリー・ハーンカーの図書館に勤務していた頃は、多くの人のさまざまな人生を観察するとともに、数多くの西洋文学を濫読した時期でもあった。この頃は、シェイクスピア、コンラッド、メルヴィル、フローベール、スタンダール、トルストイ、プルースト、オニール、ショウ、イプセン、ストリンドベリがお気に入りの作家であった。 1950年代以降マフフーズは、芸術庁の検閲官、映画支援財団の理事などの役職を経験した後、最終的に文化省の顧問になった。マフフーズは43歳になるまで独身であった。それは、結婚に伴う制限や束縛が、自分の文学者としての未来の邪魔になると考えていたためである。「私は結婚が恐ろしかったのです・・・特に、きょうだいたちが結婚したがゆえに付き合わねばならない冠婚葬祭にてんてこ舞いしているところを見るにつけ、怖くなりました。この人は誰それのところへおじゃました、あの人は誰それのところから招待を受けたってね。結婚生活は私の時間を全部奪ってしまいそうだと感じていました。およばれやら会合やらで精一杯、自由がないと思ったのです。」彼はその考えを口に出して明らかにもしていたが、1954年にアレクサンドリア生まれのコプト派キリスト教徒の女性と静かに結婚した。夫妻は最初、ナイル川西岸ギーザのアグーザ地区(حي العجوزة)のハウスボート(住居用の屋形船)に住んでいたが、同じ地区の集合住宅に引っ越した。マフフーズは人前に出ることをあまり好まず、特に私生活に関する質問を受けるのを避けた。それは「雑誌やラジオ番組のばかげた話題に消費されるだけ」と考えていたからであった。
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