官吏・政治家への復帰
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しかし、1888年(明治21年)には新聞経営の第一線から一時身を引き、1889年(明治22年)には政界引退を発表。新聞用達會社(後の帝国通信社)設立し、第一回帝国議会の開会式には議会開設と同時に自ら求めて宮内省に入り、明治天皇の侍従として参列。1890年(明治23年)に宮内省御用掛となり、翌年には皇族令取調委員、1892年(明治25年)に帝室礼式取調委員、その翌年には式部官となる。 日清戦争に際して、1897年(明治30年)に外務大臣であった大隈の要請で清国特命全権公使に就き、2年間北京に滞在し、日清戦争後における清国外債借入問題を処理した。この功により勲三等旭日中綬章。在官中、李鴻章との交游極めて親密であったため、日清戦争が終わった翌年の1896年(明治29年)には日本国で初めて清国留学生を受け入れ、清朝政府が選抜した十三人の官費留学生が試験的に派遣されてきた。2年後の1898年(明治31年)には駐清国全権大使の矢野が清国政府に継続的な留学生の派遣を説き、1900年(明治33年)に「文部省直轄学校外国委託生ニ関スル規程」、1901年(明治34年)に文部省令第十五号「直轄学校外国人特別入学規程」が発布されて、日本留学の道が開かれた。 ただ、過去に矢野は『郵便報知新聞』に日清海軍を比較して海軍拡張の急務を説き、1887年(明治20年)には集成社の『東洋之安危』(藤野房次郎著)の序文で北進論に繋がる東洋戦略を述べてもいる
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