官吏・裁判官として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 05:48 UTC 版)
酒田民生局長官、後に酒田県大参事を務める(知事を代行)。しかし農民が起こした減税運動「天狗運動」がしずまらず、失政の責めを問われて、白石按察使府(あぜちふ)に謹慎を命じられる。 明治3年には東京府少権参事として東京に赴任。これは前東京府知事だった大木喬任が呼んだと、久米邦武の回顧録にある。その後、東京府権大参事。 明治5年(1872年)左院使節団として立法機関などの調査のため渡欧(当時中議官)。パリで統計学者・経済学者のモーリス・ブロック博士に師事する。この左院使節団には他に、高崎正風、安川繁成、小室信夫、鈴木貫一がいた。なお、その前年である明治4年(1871年)に江藤新平が左院副議長となっいる。 渡仏中に岩倉使節団と合流し、木戸孝允に講義ノートを提示。20日間に渡って面会する。このノートは、岩倉使節団副使である木戸孝允が立憲制を考えるに当たって大きな示唆を与えたと言われている。またブロックは博士は、日本の民選議院設立を時期尚早と考え、岩倉具視使節にその旨を建言したという。岩倉使節団到着後は、木戸孝允と共にブロック博士を交えた学習を続けた。博士は木戸孝允に日本では三権分立である必要はないこと、西欧諸国の文明開化と言論・出版統制の関係、フランスの国立銀行、貨幣制度なども教示したといわれている。 帰国後は大審院判事を務めた後、宮城・長崎・函館などの控訴院長等を務めるなど、法曹界の要職を歴任する。その間、広沢正臣参議暗殺事件にあたって臨時裁判所別局の裁判官を務め,1875年7月13日に被告人らに無罪の言渡しをしている。 後に病気のため鎌倉に隠棲し、他の文人たちと交わりながら自身も多くの作品を残した。
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