官吏生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 17:25 UTC 版)
1569年(宣祖2年)に文科に合格して翌年承文院正字となった。この頃はむやみに人に会う事はせず、公務以外は外に出なかったため彼を知る者はいなかったが、李珥・柳成龍と知り合う。 1573年(宣祖6年)に成均館典籍に異動し聖節賀正官になり、明への使節に従って明に使した。翌年、礼曹佐郎に選抜され、黄海道都事、軍器寺判官を歴任した。また黄海道都事の頃、黄海道観察使であった李珥の下で忠実に働いたことで、1576年(宣祖9年)に李珥の推薦で司諫院正言となる。 1578年(宣祖11年)に玉堂に入り、弘文館修撰となり、その後も、弘文館校理、司憲府持平、承政院同副承旨、1583年(宣祖16年)に承政院右副承旨となるが、王子師傅河洛上疏事件により辞任。1587年(宣祖20年)に吏曹参判権克礼の推薦で安州牧使となって、民の暮らしの安定のために尽くした。更に刑曹参判から1591年(宣祖24年)に大司憲となる。
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