官吏としての業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 00:42 UTC 版)
「ホルヘ・B・ヴァルガス」の記事における「官吏としての業績」の解説
1914年にフィリピン弁護士会に入会したのち、フィリピン委員会(Philippine Commission)の法務委員となった。彼はその後急速に昇進していき、1917年には内務省主査となった。 1918年、代議院議長のセルヒオ・オスメニャの法務秘書に就任。1936年にはコモンウェルス大統領マニュエル・ケソンの主任補佐官となるが、これがヴァルガスにとってはじめての政府高官の地位であった。 1941年に日本がフィリピンに侵攻した際、ヴァルガスは国防省長官に指名され、さらに数週間後にケソンから大マニラ市市長に任命されケソン亡命後のフィリピン・コモンウェルスを託された。彼が職責を務めた時期には無防備都市宣言と日本軍による1942年1月2日のマニラ占領も含まれる。 1942年にヴァルガスは日本主導のフィリピン行政委員会(en)(比島行政府)議長となる。占領下で彼の子のエドアルドとラモンの兄弟は第一期南方特別留学生として日本に留学し、エドアルドは(旧制)東京高校、ラモンは(旧制)麻布中学で学んだ。第二共和国の準備中に日本側から大統領就任を求められたが、彼はこれを拒否している。その代わり彼は駐日大使となった。彼は日本軍がマニラから撤退する前に「日本の勝利と来るべき時代の繁栄は約束されている」と発言している。 第二次世界大戦後、ヴァルガスは1946年から1954年にかけて国家計画委員会議長を務め、1961年から年1965年にはフィリピン大学管理委員長を務めている。1960年にフィリピン共和国から名誉軍団国家勲章の騎士の位に叙されている。
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