子規と野球
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 04:47 UTC 版)
子規は日本に野球が導入された最初のころの熱心な選手でもあり、1889年(明治22年)に喀血してやめるまで続けていた。ポジションは捕手であった。 子規の最良の理解者であった河東碧梧桐ですら、彼が他のスポーツにはまったく関心を示さなかったのに、ベースボールに限って夢中になったことについては理解できないという風に「変態現象」と呼んだほどであった。 1890年5月17日の一高ベースボール会対明治学院白金倶楽部によるベースボールの試合で「インブリー事件」が起こった際の観客の一人でもあった。0-6と一高が大差をつけられた6回に事件が起こり、試合は中止となった。同年5月の『筆まかせ・第三のまき』に一高の負け方が見苦しい、と書き記している(注:十八日は誤記。十余程というのは実際の得点を意味しない)。 十八日学校と明治学院とのベースボール・マッチありと聞きて往きて観る。第四イニングの終りに学校は巳二十余程まけたり。其まけかた見苦しき至り也。折柄明治学院の教師、インブリー氏学校の垣をこえて入り来りしかば、校生大に怒り之を打擲し負傷せしめたり。明治学院のチャンピオンにも負傷ありければマッチは中止となりたり。 自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある。これは、中馬庚がベースボールを野球(やきゅう)と翻訳した4年前の1890年(明治23年)だが、読み方こそは異なるが「野球」という表記を最初に発案した。ただしこれは野球に対する訳語ではなく、あくまで自身の雅号として使っていたものである。実際1896年(明治29年)7月27日付で新聞『日本』に掲載された随筆記事によると、 ベースボール未だ曽て訳語あらず、今こゝに揚げたる訳語は吾の創意に係る。訳語妥当ならざるは自ら之を知るといえども匆卒の際改竄するに由なし。君子幸に正を賜え。 とあり、「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語に対して、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」という翻訳案を創作して提示しているが、ベースボールに対する訳語は提示されていない(野球も参照のこと)。また「まり投げて見たき広場や春の草 」「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、文学を通じて野球の普及に貢献したといえる。また新海非風との連作で、日本初の野球小説と目される『山吹の一枝』を執筆した。これらのことが評価され子規は2002年(平成14年)、野球殿堂入りを果たした。ちなみに正岡子規の出身である愛媛県には、子規の野球好きにちなんで、野球資料館『の・ボールミュージアム』 がオープンしている。
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