子規の月並調批判
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子規が批判的な意味をこめて「月並」の語をはじめて用いたのは、『獺祭書屋俳話』(だっさいしゃおくはいわ)の1892年9月17日の記事においてである。ここでは旧派の俳人花の本芹舎(八木芹舎)の句「余の木皆手持無沙汰や花盛り」の句の「手持無沙汰」を「尤(もっとも)拙劣なる擬人法」として批判し、このようなものは月並句合の句集に多く見つかるものとして「余は私に之(これ)を称して月並流といふ」と記している。のちの『俳諧大要』(1899年)では、「天保以後の句は、概ね卑俗陳腐にして見るに堪へず。称して月並調といふ」と書き、こうした句を賞賛して恥を掻かないようにするためには月並の句も多少は知っておく必要がある、としている(「恥を掻かざらんと欲する者は月並調も少しは見るべし」)。天保以後の句とは、具体的には成田蒼虬、桜井梅室、田川鳳朗などに代表される俳人たちの句である。 『俳句問答』(1899年)では、子規は自身たちの進める新しい俳風(新派)と従来の月並俳句との違いを解説している。ここで述べられている月並俳句の特徴を要約すると以下のようになる。 知識に訴える 陳腐を好み、新規を嫌う 言語の緊密を嫌う 洋語を排斥するなど、狭い範囲の言葉を用いる 流派が多い これに対し、知識ではなく感情に訴えること、陳腐を嫌うこと、言語の弛みを嫌うこと、音調の調和する限りどんな言葉も用いること、流派がないことを新派の特徴とした。 『病牀六尺』1902年8月2日の記事では、この「月並調」という言葉が俳句の流行とともに世間に広まり、俳句と関係のない事柄にまで用いられるのを見るようになった、と子規自身が書いている。
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