子規と病とは? わかりやすく解説

子規と病

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 04:47 UTC 版)

正岡子規」の記事における「子規と病」の解説

喀血した自身ホトトギスなぞらえて子規号したことに象徴されるように、子規文学はその病と切って切り離せないものであった。母八重回想では、乳児のころの子規は顔が異常に丸く見苦しく、鼻も低かった体質虚弱で背も低く内向的だったことからよくいじめられていたという。子規最初に喀血したのは、1888年明治21年8月鎌倉旅行最中であった子規本人は、翌1889年明治22年4月水戸への旅行を、旅行半年後に病の原因と書いている。5月には大喀血をし、医師肺結核診断される当時結核不治の病みなされており、この診断受けたものは必然的に死を意識せざるを得なかった。このとき子規はホトトギスの句を作り初め子規の号を用いようになった子規の病を大きく進行させたのは日清戦争へ記者として従軍であった1895年明治28年5月帰国途上船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸入院須磨保養したあと松山帰郷し当時松山中学校赴任していた親友夏目漱石下宿静養した。この年10月再上京する途上のころより腰痛歩行に困難をきたすようになり、当初リューマチ考えていたが翌1896年明治29年)、結核菌脊椎冒し脊椎カリエス発症していると診断される以後床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けた病状好転せず、やがて臀部背中に穴があき膿が流れ出るようになった歩行不能になったあとも折々人力車外出もしていたが、1899年明治32年)夏ごろ以後は座ることさえ困難になった。このころから子規は約3年間ほぼ寝たきりで、寝返り打てないほどの苦痛麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌随筆書き続け一部口述)、また病床訪れた高浜虚子河東碧梧桐伊藤左千夫長塚節後進の指導をし続けた碧梧桐は、暑さに参る寝たきり師匠手動扇風機作ったと言われている。子規は、それを「風板」と名付け喜び季語にならぬかと考えたとも言われている。

※この「子規と病」の解説は、「正岡子規」の解説の一部です。
「子規と病」を含む「正岡子規」の記事については、「正岡子規」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「子規と病」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「子規と病」の関連用語

子規と病のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



子規と病のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの正岡子規 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS