大西洋経済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:08 UTC 版)
ヨーロッパ経済の成長 16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ経済は以下のような諸点で大きく変化した。 中世には地中海地域を中心としていたヨーロッパ経済は、あらたに大西洋に面する西ヨーロッパにその中心を移した。 「17世紀の危機」とよばれた17世紀をのぞき、この時期のヨーロッパは人口が増加し、食糧や衣服の需要が増えた。そのため、とくに農業や毛織物などの産業に熱心であったフランス・ネーデルラント・イングランドでは経済が活性化した。 経済活性化の背景には、大航海時代以来のヨーロッパ世界の拡大があった。とりわけ西欧を要に、アフリカやカリブ海・北アメリカを結ぶ人と物の貿易連鎖、いわゆる三角貿易のかたちをとった「大西洋経済システム」が18世紀までに成立したのである。 大西洋の三角貿易 北米大陸の北部にはフランス人やイングランド人が入植して、狩猟や毛皮の売買をおこない、漁業や農業を自営していたが、北米大陸南部やカリブ海の西インド諸島では、スペイン・フランス・イングランドなどからやってきたプランター(大農場主)が、サトウキビ・コーヒーなどを先住民の強制労働を用いて、西欧人の需要のために栽培した。これがプランテーションである。先住民インディオの多くは征服民のもたらした感染症などで病死し、原綿やタバコでもプランテーションが営まれたため、その労働力としてアフリカから大量の黒人奴隷が輸入された。 イギリス最初の奴隷貿易は1562年のジョン・ホーキンスによるものであったが、1663年には王立アフリカ冒険商人会社が、1672年にはそれに代わって王立アフリカ会社が設立されて奴隷貿易をになった。1709年に初めて奴隷船を就航させたリヴァプールは、そののちロンドンやブリストルを抜いて世界最大の奴隷貿易港となった。 当時のアフリカ西海岸では、部族間の対立が続いていた。そこに奴隷商人がきて、部族間戦争の捕虜を奴隷として買い入れ、火器や工業製品を販売した。こうして部族間の奴隷狩りを目的とする戦争は激しさを増し、アフリカ社会は荒廃し、人口は激減した。また、大西洋をわたる奴隷船では不衛生で非人道的な扱いがなされ、病死したり衰弱死したりするアフリカ人も多かった。 北米・カリブ海域のプランターや西アフリカの部族が購入した火器・織物・ラム酒・雑貨などは西欧で製造されたものであり、大西洋経済の利益は西欧の商工業にもたらされた。この利益をどの国が掌握するかをめぐり、西欧諸国のあいだで戦争が続いたのであり、そのなかでも第2次百年戦争はとくに長期にわたるものであった。
※この「大西洋経済」の解説は、「第2次百年戦争」の解説の一部です。
「大西洋経済」を含む「第2次百年戦争」の記事については、「第2次百年戦争」の概要を参照ください。
- 大西洋経済のページへのリンク