大泉サロンの解散
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:04 UTC 版)
長屋の契約更新時期を機に「大泉サロン」解散を決意。同居の萩尾と、触れる情報や交友関係などの経験が重なり、ファンが『ポーの一族』を竹宮作品と勘違いするなど作風が似てしまったことなどから別居した方がよいと考えた。それだけ竹宮の悩みは深いものだった。 その後、都内杉並区下井草の2DKの6畳2室の広いマンションで増山と同居する。この頃の増山は、竹宮のスケジュール管理や食事の世話、担当との打ち合わせに同席するなど、マネージャー的立場で竹宮をサポートしていたが、一方で竹宮のブレーン的立場でもあった。竹宮は自身の作品に『監修』などの肩書付きクレジットで掲載したいと増山に提案したが、「ストーリーも絵もできるのが一人前の漫画家」と考えていた増山は頑として拒んだという。 竹宮は著作の中で「漫画家が他者のアイデアを借りた場合、原案・原作・構成・監修など仕事内容に応じたクレジット名を作品に入れることがあり、提供された情報量によって扱いが異なるのが普通だ。口頭でのアイデア出しから完全な漫画原作まで関わり方も様々だが、増山の作品への関わり方も、その都度違っていて、多くが構成上のアイデア出しであり、口述形式で行われた。その中でも増山が長い間、作りためた『変奏曲』だけは彼女の完全な漫画原作だった」と述べている。 ちなみに『風と木の詩』は、竹宮が『ダフニスとクロエ』のポスターからインスピレーションを得て制作した作品である。自伝『少年の名はジルベール』によると、竹宮は相づちを打ちながら関心を持って聴いてくれる増山と電話で話すうちに、次々と場面や設定ができあがっていくドライブ感を体験したという。 萩尾は大泉サロン解散後も、竹宮と増山の住むマンションの近隣に住んでいて頻繁に出入りしていたが、ある日、ふたりから呼び出され、「あなたが描いた『小鳥の巣』は発表前の『風と木の詩』の設定と似ている。盗作したのではないか」と疑惑を投げかけられる。後日、竹宮は「あのことは忘れて欲しい」と萩尾に和解を持ちかけたが、同時に「マンションに来られては困る。そこに置いてある資料も読んで欲しくない。節度を持って距離を置きたい」という内容の手紙を置いて行く。 漫画ジャーナリストの加山竜司は「竹宮はいずれ世に出す『風と木の詩』のために集めた資料やアイデアを、同居している萩尾に先に消費されたくなかったのだろう。後出しになったら読者からは、竹宮の方が二番煎じのように思われてしまう。モチーフ(映画『寄宿舎~悲しみの天使~』)が同じだからといって盗作とは言えない。しかし、悲願の『風と木の詩』にかぎっては、そのようなケチを付けられることなく万全な状態で世に出したい。竹宮は、そう考えたのではないだろうか。あの手紙の中の『距離を置きたい』というのは『絶縁宣言』ではなく『アイデアのソース共有を避けたい/分けたい』という意味だったのだろう。そういう意図を若い竹宮が『盗作』という誤解を招く表現で、萩尾に伝えてしまったのは不幸としか言い様がない」と『週刊文春エンタ!』で分析している。 萩尾は後にこの一件で「心因性の視覚障害を煩った」と『一度きりの大泉の話(以後『大泉本』)』に書いているが、診断書などの物的証拠はないため、本人が勝手にそう言っているだけである。また、萩尾は「目を痛めたので竹宮先生の作品を全く読んでいない」と『大泉本』に書いているが、これも「再び盗作疑惑をかけられないようにするための予防線ではないか」と加山は述べている。 その後、竹宮は思うように作品が描けない重症のスランプに3年間ほど陥る。そのために自律神経失調症を患ったと述べている。当時の体重は42kg。しかし、この状態を克服するためにいったん休むと発表の機会がなくなると考え、休養ではなく、週刊誌連載が一時空くと、月刊誌2ヶ月3作読み切りのペースで描き、継続して漫画を描くという手段を選んで執筆を続け、精神を持ちこたえる。
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