大正・昭和戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 18:17 UTC 版)
1923年9月1日に発生した関東大震災で銀座は町の大半を焼失し、壊滅的な被害を受けた。国の援助を受けて東京市は大規模な帝都復興計画を実施し、都市機能の拡充を行った。銀座でも、煉瓦家屋のほとんどの取り壊し、昭和通りの整備、晴海通りや外堀通りの拡幅が行われたものの、街区の整備に手をつけられることはなく、1872年の区画整理時の町並みが残された。 なお戸越の商店街は震災後の排水処理に困っていたため、銀座から撤去されたレンガを貰い受けて排水処理に利用した。この由来から『戸越銀座』と名乗るようになって、全国初の「○○銀座」となった。その後、銀座の繁栄にあやかって全国各地に「○○銀座」と名付けられた商店街が数多く形成されていくようになった。震災後は、東京駅の開業に伴う丸の内の発展や東京市電の整備などにより、百貨店や劇場、喫茶店(カフェー)などが次々と登場し、震災恐慌や金融恐慌などで日本中が不景気に見舞われる中でも発展を続けていく。昭和初期にはアール・デコの影響を受けたモダンボーイ(モボ)やモダンガール(モガ)と呼ばれる人々が町を闊歩し、散策する「銀ブラ」が全盛を極める。 しかし、日本が戦争へ介入するに伴って銀座もその影響を受けるようになる。戦局の悪化に伴い1940年に贅沢品の製造販売禁止令(七・七禁令)や電力制限による広告灯・ネオンサインの消滅、1944年には警視庁によって劇場・料理店・待合芸妓屋・バー・酒屋が閉鎖され、銀座は大打撃を受けた。その一方で、軍隊の行進や、贅沢を諫める運動なども街頭で行われた。第二次世界大戦末期の1945年1月27日に銀座は初めて空襲を受け多数の死者・重傷者を出した。爆弾は泰明国民学校にも直撃し教員4人が死亡、2人が重軽傷を負った。その後も3月10日、4月28日、5月25日の空襲で銀座は七・八丁目と六丁目の一部を除いて壊滅的な被害を受けることとなる。
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