大正政変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)
「大正政変」も参照 しかし桂は政権復帰を諦めておらず、上原勇作陸軍大臣を煽って二個師団増設を強く働きかけさせた。これによって二個師団増設を拒否された上原陸軍大臣は辞任し、後継の陸軍大臣を得られなくなった西園寺内閣は12月21日に総辞職した。山縣ら元老会議は後継者の選出に苦しみ、結局自ら手を挙げた桂を選ぶ他なかった。しかしこの政変は世間に「山縣を中心とする長州閥が政友会内閣を倒した」と捉えられ、憲政擁護運動が勃発し、対応できなくなった第3次桂内閣は大正2年(1913年)2月11日に総辞職した。山縣ら元老会議は西園寺に首相就任を依頼したが断られ、西園寺の提案する山本権兵衛海軍大将を奏薦することとなった。 第1次山本内閣は陸海軍大臣の現役部官制を、予備役も対象など緩和するなど、陸軍の権力を弱める動きを強めたが、山縣は抵抗する動きを見せなかった。11月10日月に山縣は病気を理由に枢密院議長を辞任する意向を見せた。しかし山縣に匹敵する格を持つ元老はいずれも健康上の理由などから受けるとは思われず、山本首相は山縣を留任させるよう働きかけた。12月2日には山縣に留任を命じる天皇からの言葉が伝えられ、山縣は枢密院の会議に出席せずとも、副議長を通じて影響力を行使することができるようになった。大正3年(1914年)1月23日にシーメンス事件が発覚すると貴族院の山縣閥は海軍予算の否決に動き、進退窮まった山本内閣は3月24日に総辞職した。3月26日から行われた元老会議は山縣主導のもとで行われた。松方の推した徳川家達貴族院議長が拝辞した後、松方は山縣直系である清浦奎吾を推薦した。山縣もこれに同意したが、清浦は海軍の協力が得られず組閣を断念した(鰻香内閣)。4月9日には大正天皇から山縣自ら組閣するよう求められたが、山縣は拒否し、元老以外から首相選定の意見を聞かないよう釘を差している。4月10日には大隈重信と加藤高明を提案し、井上馨・大山・松方も賛成した。4月16日、ようやく第2次大隈内閣が成立した。
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