二個師団増設問題による西園寺内閣崩壊
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「大正政変」の記事における「二個師団増設問題による西園寺内閣崩壊」の解説
陸海軍は明治40年に策定された帝国国防方針により、当面は陸軍が二個師団増、海軍が戦艦1隻、巡洋艦3隻の増艦を要求していた。一方で西園寺首相は日露戦争後の財政難から緊縮財政の方針を採っていた。 大正元年8月頃から、陸軍省(上原勇作陸軍大臣)と内閣(政友会)の間で、二個師団増設を巡って対立が深まる。藩閥勢力の長老である山縣元老は増設を求めており、また陸軍内の強硬派は、これを機に西園寺内閣を倒閣、寺内朝鮮総督を首班に陸軍主体の内閣を立ち上げることを計画した。しかし、山縣元老は内閣の意向や世論の反発を無視して増設を強引に推し進めることには慎重であり、また桂の政界引退により桂園体制が終焉した後の政友会との関係性を図る意味合いもあり、二個増師が不可能なら軍備充実、部分的増軍、一年延期などで妥協することも考えていた。 上原陸相は、陸軍内部の突き上げと増設反対の内閣・世論の板挟みになったが、11月29日、陸軍内の妥協的な動きを受けて、一旦は増師撤回を表明する。しかし、政界復帰を模索する桂および、薩摩閥の復権を企図する財部彪海軍次官らは、増師問題がこじれて藩閥と政友会の連携が崩れると自らに有利に作用するため、逆に上原陸相に増師を押し通すようにを焚きつけた。 11月30日の閣議で、上原陸相は翌大正2年度からの増師を強硬に要求したが、増師計画は採用されなかった。12月2日、上原陸相は帷幄上奏権を利用して、単独で大正天皇に直接辞表を提出した。事態の急転に驚いた山縣元老は、桂内大臣を通じて、内閣と陸軍との和同を求める勅語の渙発を提案し、自ら勅語の草案を起草するが、この草案は桂の手によって握りつぶされた(12月1日)。桂は侍従長の資格で西園寺首相と面会したが、この時、増師要求を受け入れるよう口頭で求めるにとどめた。更に、後任陸相について、桂は人選は難しいという軍内情勢を伝えた。軍部大臣現役武官制により、陸軍から後継陸相の推薦が出ない場合は、内閣は成立しなくなる。 12月3日、西園寺首相は上原陸相の辞表を一時留めおくよう要請したのちに山縣元老と面会する。西園寺の目的は後継陸相についてであったが、勅語が桂の手で握りつぶされたことを知らない山縣は、増師問題で歩み寄ることで互いの妥協を図るよう提案した。西園寺は、山縣が増師問題で元から妥協をしてもかまわないと思っていることを知らなかったため、山縣は最初から倒閣を目論んでいたと解釈、かくなる上は一旦野に下り、後継の藩閥首脳陣と対決するほかない、と一決する。12月5日、第2次西園寺内閣は総辞職した。
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