大坂での打ちこわしの発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:30 UTC 版)
「天明の打ちこわし」の記事における「大坂での打ちこわしの発生」の解説
全国的な天明6年の不作が引き金となった米価高騰は、天明年間後半に著しくなった田沼政権の通貨政策に端を発する物価高、そして天明3年から4年にかけての大飢饉の教訓により米の移出に制限を加えた東北地方の動向もあって、天明7年に入ってその深刻さを増していった。大坂では全国的な米不足の中、米の移入が減少しているのにもかかわらず江戸への米の移送が行われ続け、そのうえ商人たちによる米の買い占めも行われており、米不足が深刻化していた。米不足と物価高による米価高騰の直撃を受けた大坂の米の小売を担う搗米屋は、天明7年5月5日(1787年6月20日)までの売掛け金を回収した上で、これまで行われてきた掛売りを中止して、金と銭の価値が低下する中で価値が上がっていた現銀払いのみで米を販売することにする協定を結んだ。天明期の物価高によって生活に大きな打撃を蒙っていた都市民衆にとって、高騰した米を現銀でなければ購入できないことは死活問題であり、搗米屋に対してこれまでの売掛け金の支払いを誠実に行うので、今まで通りの掛売りを続けて欲しいと要望したが認められなかった。 天明7年5月10日(1787年6月25日)夜、木津や難波に住んでいる人々を中心に木津村の米屋が打ちこわされた。この打ちこわしが天明7年の大坂打ちこわしの始まりとなり、そして打ちこわしは大坂から全国各地へと波及することになった。木津村は当時6つの村によって構成されており、大坂近郊の村として野菜栽培などの農業とともに、綿屋や絞油屋などといった加工業、商業が発達し、更に都市化が進み始めていて借家住まいの人々も増加していた。つまり天明7年当時の木津村は都市化が進み出した大坂近郊の農村であった。また木津村は米作ではなく主として大坂向けの畑作が営まれていたため、米は大坂中心部の堂島の米市場で全て賄われていた。つまり都市近郊の畑作地であり加工業、商業が盛んで都市化も進行して多くの借家人が住むようになっていた木津村は、構造的に米価高騰の影響を強く受ける村であった。 木津村で始まった大坂での打ちこわしは翌天明7年5月11日夜(1787年6月26日)には、多くの下層生活者が住んでいた当時の大坂の周辺部に当たる玉造町、天満伊勢町、安治川新地などに広がった。この時の打ちこわしでは米を買い占め多くの利益を挙げていると見られていた米屋がターゲットとなり、米の価格高騰の中、暴利をむさぼる商人たちに対する民衆の怒りが打ちこわしに繋がるという構図が明確となった。そして天明7年5月12日(1787年6月27日)には、当時の大坂中心部全域で激しい打ちこわしが発生した。打ちこわしの目標はやはり米価高騰の中、米の売買を通じて巨利を挙げていた商人たちと、これまで認められてきた米の掛売り中止、現銀払いとした搗米屋の代表格であった。民衆たちは店舗を破壊し商売道具を壊し、金銭や商品、帳面などを川に投棄するといった激しい打ちこわしが大坂中に広まった。 天明7年5月12日昼以降、民衆たちは搗米屋を中心とした米屋に対して安価での米の販売を要求する「押買」の行動に移った。大坂町中に広まった打ちこわしの脅威を背景に、民衆たちは米屋に安価での米の販売を要求し、拒否をしたら打ちこわしを行った。さっそく町触によって押買は禁止されたものの、大坂を席巻した打ちこわしの恐怖に米屋は対抗しきれず押買は広まった。天明7年5月13日(1787年6月28日)には、押買の横行に恐れをなした大坂町中の搗米屋は一斉に売り切れの札を店先に掲げ、閉店状態となった。同日には大坂町奉行所の打ちこわし取締り、町々での番人設置、そして生活困窮者に対する組織的な安価な米の販売が開始されたことにより、大坂での打ちこわしは沈静化に向かった。天明7年5月にどのくらいの商家が打ちこわしに遭ったのかについてははっきりしないが、数十件から百数十件との記録が残されている。大坂での打ちこわしは沈静化したものの、大規模な打ちこわしの発生、そして大坂町中の搗米屋の営業休止によって民衆たちが近隣へ米を買い求める行動に出たことにより、大坂近郊の都市を中心として打ちこわしや騒動が広がることになった。
※この「大坂での打ちこわしの発生」の解説は、「天明の打ちこわし」の解説の一部です。
「大坂での打ちこわしの発生」を含む「天明の打ちこわし」の記事については、「天明の打ちこわし」の概要を参照ください。
- 大坂での打ちこわしの発生のページへのリンク