大坂から大阪へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 14:55 UTC 版)
江戸時代中期には「大坂」と「大阪」が併用され、明治維新後の1868年、新政府はもとの大坂三郷に大阪府を置いた。元来の「大坂」に代わって「大阪」が正式な表記となったのは、このころである。「阪」は「坂」の異体字のなかでも古字とされる字であり、阜部(読み:ぶぶ、意味:こざとへん)は小高い土山・丘陵を意味する。 明治維新と相前後して、大久保利通により、首都を京都から程近い大阪に移転する遷都案が出されていたこともあったが、これは東京への首府機能の移転となったため、幻に終わった。 明治維新の直後は廃藩置県によるいわゆる「大名貸」の貸し倒れや地租改正による金納化(結果的には農民による米の自由売買につながった)によって、大阪経済は大きな打撃を受けたが、経済産業の近代化とともに次第に西日本経済の中心地としての地位を確立していくことになる。 1869年には北・南・天満の三郷から東・南・西・北の4大組に再編され、1875年に大区小区制が施行されると、順に第1~4大区となり、1879年に郡区町村編制法が施行されると、再び東・南・西・北の4区となった。 1889年には市制施行により大阪府管内の大阪市となる(市制特例参照)。 難波津後退以来1000年以上にわたって内陸の都市だった大阪は、1897年の第一次市域拡張によって大阪湾に面する市域となり、海港の造成(第一次大阪港修築工事)も同年にスタートした。1925年の第二次市域拡張では東成郡・西成郡の残余44町村全てを編入し、首府の東京府東京市(現・東京都区部)を人口で追い抜き、日本最大の人口を有する都市となった。また、世界でも6番目の人口数を誇る主要都市となり、ここに大大阪時代が到来した。 しかし1932年に東京府東京市が周辺町村の合併によって市域拡大によって、人口で再び大阪市を追い抜いたため、大大阪時代はわずか7年で終焉した。 1955年の第三次市域拡張では河内国の範囲にあたる6町村を編入し、ほぼ現在の市域となった。後年に湾岸部の埋立造成が拡大し、市域はさらに広がったが、これ以降編入合併による市域拡張は行われておらず、政令指定都市の中でも予算規模等上位にありながらも非常に面積の小さい市となっている。 府県のほうでは、1881年に現在の奈良県を併合していた堺県を大阪府へ編入して最大版図となったが、1887年に奈良県を分離した。1958年には京都府の一部を大阪府へ編入し、現在の府域となった。
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