夢のスタート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 03:59 UTC 版)
物心ついた頃からテレビの世界の歌手に憧れていた。しかし、思春期に容姿に劣等感を抱え、学校では人気者の同級生を羨ましく見る、どちらかといえば目立たない存在だった。「笑われるのが怖くて歌手になる夢なんて口にできなかった」という。 大学に入学後も歌手への憧れは変わらず、大学1年の終わりに「このまま就職活動を始めたら一生後悔する。可能性を試しきってみよう。」と決意も、デモテープを延べ40社以上に送ったが反応はなかった。ボーカルスクールに通いながら、作曲家がコンペに提出する曲に仮歌を吹き込む仕事をmixiのコミュニティで探して応募した。デモ音源がビクターのディレクターの目に止まり、秋山奈々専属で仮歌とコーラスを担当する歌手に起用された。 ボーカルスクールのレッスン費の減額を受けるために宮崎が提出していたデモテープが、ボーカルスクール併設のレーベルであるシアーレーベルの担当者の目に止まったことから、大学3年生になった2007年に同レーベルからCDを出すことが決まった。CD発売を数カ月後に控えた大学3年生の夏、初めての路上ライブを渋谷駅前で行った。友達に借りたキーボードとマイクスタンドを抱えて、混雑するハチ公前ではなく、西口の歩道橋前に立った。だが、なかなか声を出せない。やっと歌い始めても誰も立ち止まってくれず、通り過ぎる人々の視線が冷たく感じられた。自分の歌は街の喧騒の一部でしかなく、自分は誰にも必要とされていない人間のように思えてきた。「もうダメだ。これを歌ったら帰ろう」。2曲目を歌い終えて楽器を片付け始めた時、スーツ姿の男性が「いい歌でしたね」と声を掛けてきた。涙があふれた。「あのひと言があったから、路上ライブを続けられた」という。 その年の10月5日、1stシングル『優しい青』を発売した。3ヶ月で1500枚を販売する目標のもと、路上ライブを本格的に開始した。台風や大雨の日以外はほぼ毎日、夕方の5時から8時くらいまで路上に立った。寒さの厳しい日は、キーボードを弾く手が真っ赤になった。1stシングルの目標は72日目で達成し、歌手としてやっていけるかもしれないという希望が見えたという。 その矢先、宮崎はスランプに陥ったという。翌年2008年の3月に2ndシングルを発売し、3ヶ月で3,000枚を販売する目標で路上ライブを始めたが、なかなか人が立ち止まってくれず、CDも売れなくなった。「あなたの歌からは何も伝わらないね」と厳しい言葉をかけられ、泣きながら帰る日もあった。泣くと翌日の路上ライブでは声が出なくなり、また失敗する悪循環が続いた。それでも「顔が特別きれいなわけじゃない。ほかのアーティストに比べて、才能もない。何もないから、動くしかない。」という思いで、毎日路上に立って歌い続けた。すると「俺も昔は夢を追いかけていたんだ」「就職活動がうまくいかないけど、頑張ろうと思った」などと声をかけてくれる人が現れた。私の夢を支えてくれているのは、路上で出会った人たち。そのことに気付いたときから、宮崎はスランプを脱出できたという。 会社員が職場に毎日出勤するように、宮崎は路上に毎日「出勤」するようになった。宮崎の路上ライブは、キーボードの弾き語りである。場所決めからセッティングまで、スタッフを伴わずに一人で行う。自分の背丈ほどあるキーボードを背負い、アンプや販売用のCDなどの機材を積み上げたカートを一人で押して、電車に乗って移動する。これらの荷物の総重量は50kgに達するという。
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