外国との提携
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1974年の『樺太1945年夏 氷雪の門』あたりからソ連のモスフィルムとの付き合いが始まり、モスフィルム所長ニコライ・シゾフとの共同製作で1980年『甦れ魔女』を製作。この後、シベリアオオカミを主人公にした映画、という岡田の企画が8年越しで実現したのが1990年の『オーロラの下で』。 詳細は「オーロラの下で 」を参照 その後もモスフィルムと提携して合弁会社「トーモス」を設立、東映太秦映画村のモスクワ版を作るというプロジェクトも進めたがその後の詳細は不明。モスフィルムの3700本の日本上映権は1990年9月契約した。 1974年、アメリカのワーナー・ブラザースがロバート・ミッチャム、高倉健主演、シドニー・ポラック監督で映画化した『ザ・ヤクザ』は、東映の京都撮影所で製作されたが、ワーナーから高額なレンタル料をふんだくった。ワーナーは「日本のエコノミック商法は“カミカゼ”なみだ。日本映画界の仁義ってそんなものか」と憤慨していたという。この映画のエグゼクティブ・プロデューサーは俊藤浩滋であるが、監督のシドニー・ポラックが日本人を馬鹿にして、ポール・シュレイダーが脚本で書いていた仁義や義理といった日本的形式を全部追いやりメロドラマにした。ポラックと俊藤は終始仲が悪く、すったもんだのあげく映画は完成。岡田の判断で配給は東映で行った。 ブルース・リーの4本しかない主演映画の日本公開順では最後となった『ドラゴンへの道』の日本での配給権を巡り、1974年に東宝東和と激しい争奪戦を展開し池玲子を人身御供"にして同作の獲得に成功した。 詳細は「ドラゴンへの道」を参照 岡田が設立した東映洋画部は新参のため、西ドイツ映画『性医学 幸福へのカルテ』を皮切りとして、当初はポルノ映画を専門に手掛け、1973年の『淫魔』は初の立体ポルノとして話題を呼び、『世界悶絶トルコ風呂』の大ヒット、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の『昼顔』のリバイバルヒットと後、この『ドラゴンへの道』の大ヒットにより洋画部は大きく飛躍した。 1975年、東南アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)でジャカルタに行った際、同じ代表団団長同士というので香港ショウ・ブラザーズの邵逸夫と仲良くなり、その後提携に発展した。当時、香港で『仮面ライダー』が物凄く人気を呼んでいて、邵は子供物に非常に興味を示し、動画(アニメ)に手をつけたいから応援してくれ、と言われたが「動画はあまり得にならんよ」とアドバイスを贈った。香港は人件費が安いからと邵は動画をやりたがっていたという。三上陸男や村瀬継蔵がショウ・ブラザーズに招かれたのはこの流れと思われる。邵は映画村にも興味を持ち、撮影所のわきに作りたいからと岡田に指導を要請してきたが、タダで知恵は売れない、ノウハウを輸出してやろうと答えたという。 ジャッキー・チェンの日本で最初に劇場公開された主演映画『ドランクモンキー 酔拳』は、先のゴールデン・ハーベストが東映ポルノに注目してコンタクトしてきた流れから製作の呉思遠が東映に売り込みに来たものという。同作は1979年に『トラック野郎・熱風5000キロ』との2本立てで公開され大ヒットしたため、立て続けに主演映画が公開され、日本でジャッキーフィーバーが巻き起こった。なお、売り込んできたジャッキー映画のうち、『新精武門』(『レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』)だけは岡田が「誰がこんなもん、見るの?」ということで買わなかったという。このため本作は劇場未公開である。
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