外債問題の処理
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1925年に第1回外債1500万米ドルを発行した当時、為替相場は100円=40.87ドルと円安であったが、その後円高傾向となったため、元利金支払いにつき為替差益が生じた。同時期の第2回外債30万英ポンドについても同様であり、この為替差益を狙うという点が外債発行に踏み切った動機の一つになっていた。1926年に第3回外債1000万米ドルを発行した後、1929年(昭和4年)7月にこれを償還するため第4回外債6分利付き米貨債(発行額1145万米ドル・日本円換算2297万円)を追加発行している。東邦電力による外債発行はこの4回であった。 1930年1月、濱口内閣により金解禁が実施された。以後しばらく法定平価(100円=49.845米ドル)に近い為替相場が維持されたが、翌1931年12月に犬養内閣が金輸出再禁止に踏み切ると急速に円安が進んだ。そのため外債を発行していた東邦電力を含む五大電力各社では元利金支払いの負担が急増するという「電力外債問題」が発生した。外債問題により、五大電力のうち東京電灯・宇治川電気・大同電力の3社は一時期無配に転落する。一方で東邦電力と日本電力は減配はあったものの無配は免れた(東邦電力の配当率は1932年下期より年率5パーセント)。特に東邦電力は外債問題を五大電力中で最も素早く処理し業績を維持できたと評された。 外債問題処理の第一歩は第4回外債1145万米ドルの処分であった。これは第3回外債と同様の短期債であり1932年7月が償還期限とされていた。社長の松永は、1931年9月にイギリスが日本より先に金輸出再禁止に踏み切ったのを見て日本の金輸出再禁止を予測し、円安となるのを見越してただちに第4回外債償還用のドル資金調達に取り掛かった。結果、日本の金輸出再禁止までに約600万ドルを確保し、1932年春ごろまでには資金調達をほぼ完了した。償還期限の同年7月1日時点での為替相場は大幅な円安で100円=27.375米ドルとなっていたが、東邦電力では平均100円=36.58米ドルの相場で償還を終えた。発行時の相場と比較すると償還に際して720万円の為替差損が生じたが、それでも早期の資金調達で差損を1055万円も縮小している。償還費用3130万円は金融機関からの借入れによった。 1932年10月末時点での未償還外債残高は第1回外債が1237万5000米ドル、第2回外債が22万9000英ポンドであり、この時点で100円=20米ドルまで円安が進行していたから、法定平価と比べて年間で合計約268万利払い負担が増す計算になる。この負担を圧縮すべく東邦電力では外債の償却に努めた。第1回・第2回外債とも減債基金による毎期一定額の償還が定められていたが、後者については規定外の任意償却が認められていなかったため、特に第1回外債の任意買入消却に集中した。1932年から1934年(昭和9年)にかけての3年間の第1回外債償還高は565万ドル(うち任意償却によるもの400万ドル)に及んでおり、1934年末の未償還高は727万5000ドルに低下、ここから買戻し済みの手持ち高を差し引いた実流通高は439万7000ドルまで圧縮された。一連の操作による負担低下と1934年以降の為替相場の持ち直し(100円=30ドルで安定した)により外債問題は解決へと向かった。 外債を含む社債償還費の確保や借入金返済のため、1933年9月から翌年3月にかけて、3回に分けて計6000万円の社債を発行している。これらの社債は金融緩和による低金利と法改正で新たに認められたオープンエンド・モーゲージ(開放式担保)制の2点による長期かつ低利(利率4.5 - 5パーセント)な会社側に有利なものであった。加えて1933年5月には下関支店区域を1530万円で山口県へ売却するという思い切った資金調達措置も採っている。
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