地中海派兵とは? わかりやすく解説

地中海派兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 17:57 UTC 版)

日英同盟」の記事における「地中海派兵」の解説

大戦後半欧州戦線連合国側劣勢になると、イギリスを含む連合国は、日本軍欧州へ派兵要請してきた。これに対して日本政府遠隔地での兵站確保は困難であるとして陸軍派遣断ったしかしながらドイツ・オーストリアハンガリー海軍Uボート及び武装商船海上交通破壊作戦強化され1917年1月からドイツおよびオーストリア無制限潜水艦作戦開始する連合国側艦船被害甚大なものになり、イギリス日本へ、地中海駆逐艦隊、喜望峰巡洋艦隊の派遣要請した日本にとって脅威を受けるわけでもなく、さらに直接的に何の利益生まないヨーロッパへ派兵最初渋っていた日本政府も、日本海軍積極的な姿勢占領した膠州湾租借地南洋諸島利権確実なものするべく1917年2月7日から順次日本海軍第一特務艦隊インド洋喜望峰方面第二特務艦隊地中海第三特務艦隊南太平洋オーストラリア東岸方面派遣した中でも地中海派遣され第二特務艦隊活躍目覚ましかった。大戦終結までの間、マルタ島基地地中海で連合国側艦船護衛に当たり、イギリス軍21隻を含む延べ船舶数計788隻、兵員70万人護衛当たった。そして、被雷船舶乗組員7,075人を救助している。日本海軍護衛当たった「大輸送作戦」により、連合国側アフリカにいた兵員アレクサンドリアエジプト)からマルセイユフランス)に送り込むことに成功している。 特に、地中海での作戦開始した1917年4月9日から1か月経たない5月3日駆逐艦ドイツUボート潜水艦攻撃受けたイギリス輸送船トランシルヴァニア号の救助活動に当たり、さらに続くUボート魚雷攻撃をかわしながら、3,266名中約1,800人のイギリス陸軍将兵看護婦救助成功したその他の特務船と漁船による救助合計3,000人を救助)。これ以前救助活動あたったイギリス艦船二次攻撃遭難して6,000名の死者出したことにより、たとえUボートにより被害出した船が近くにいたとしても、救助しないということになっていた。そのような状況での決死救助活動であり、以来日本海軍への護衛依頼殺到した。後に、両駆逐艦士官は、イギリス国王ジョージ5世から叙勲されている。 ところが、それからまた1か月後の6月11日駆逐艦榊オーストリア=ハンガリー海軍Uボート(Smu-27)の攻撃を受け、魚雷火薬庫当たったため爆発重油タンクより前部船体3分の1一瞬のうちに、吹き飛んでしまった。この攻撃により、艦長以下59名が死亡した第二特務艦隊は、駆逐艦榊59名を含み78名の戦没者出した。これら戦没者慰霊碑が、マルタ当時イギリス海軍墓地遭難から1年後建立された。慰霊碑イギリス海軍墓地の奥の一番良い所を提供され当時日本海軍活躍をいかにイギリス海軍感謝していたかがわかる。 なおマルタ慰霊碑は、第二次世界大戦時ドイツ軍によるマルタ包囲作戦爆撃を受け、上4分の1欠けてしまった。長らくその状態で荒れていたが、1974年新しく慰霊碑作り直して復元した

※この「地中海派兵」の解説は、「日英同盟」の解説の一部です。
「地中海派兵」を含む「日英同盟」の記事については、「日英同盟」の概要を参照ください。

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