地中海艦隊での勤務
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「パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の記事における「地中海艦隊での勤務」の解説
1892年から1893年にかけての冬、「パーミャチ・アゾーヴァ」では過積載による劣化と、1890年の性急な出港に関係する手落ち箇所の修正作業が行われた。この際、チュフニーン艦長は過載軽減のため帆装を廃して軽量マストに換装するよう海軍技術委員会に要求したが、委員会は認めなかった。 1893年には、アメリカ合衆国で開催されるコロンブスによるアメリカ大陸の発見 400 周年を祝す国際観艦式に参加するため、ロシア帝国海軍からも艦船が同国へ派遣されることになった。しかし、「パーミャチ・アゾーヴァ」の修理(ロシア語版)が出航準備期日の4月1日までに完了しないことは、すでに1月11日の時点で明白であった。アメリカ合衆国へは、5月21日に 1 等巡洋艦「ナヒーモフ提督」が、5月30日に艦隊装甲艦「インペラートル・ニコライ1世」が出航した。式典の開催される4月13日までにニューヨークへ到着したロシア艦は、1 等巡洋艦「ドミートリー・ドンスコイ」と「ゲネラール=アドミラール」、「ルィーンダ」だけであった。その頃、「パーミャチ・アゾーヴァ」ではクロンシュタット港とバルト工場が全力を挙げて修理作業が進めていたが、修理は期日までに完了しなかった。特に、過積載の軽減工事が難航した。 まだ工事も完了せず、また訪米中の「ナヒーモフ提督」や「インペラートル・ニコライ1世」がまだニューヨークにあった7月7日、海軍省は「パーミャチ・アゾーヴァ」をバルト艦隊地中海艦隊の旗艦に任命する決定を下した。地中海艦隊は、1891年にクロンシュタットを訪れたアルフレッド・ジェルヴェ(フランス語版)海軍少将麾下のフランス艦隊への返礼として、F・K・アヴェラーン(ロシア語版)海軍少将の旗の下、トゥーロンを訪れることになっていた。このため、「パーミャチ・アゾーヴァ」は8月10日までにはカディスに到着する必要があり、そこで訪米から戻った巡洋艦「ナヒーモフ提督」および「ルィーンダ」、装甲艦「インペラートル・ニコライ1世」と合流することになっていた。なお、「ドミートリー・ドンスコイ」は大西洋艦隊司令官 N・I・カズナコーフ(ロシア語版)海軍中将を乗せてクロンシュタットへ戻ることになっており、「ゲネラール=アドミラール」は大西洋で実習航海に従事することになっていた。地中海艦隊には、それらのほかに黒海艦隊の砲艦「テーレク」がピレウスから加わることになっていた。 ところが、「パーミャチ・アゾーヴァ」がクロンシュタットを発ったのはようやく8月21日のことであった。その上、その時点で修理工事はまだ完了していなかった。艦隊は、地中海に各々集まり始めた。「インペラートル・ニコライ1世」と「ルィーンダ」は、別行動でカディスからトゥーロンへ直行した。一方、「ナヒーモフ提督」は9月28日にカルタヘナを出航し、バルセロナで彼を待つ艦隊に合流しようとした。ところが、「ナヒーモフ提督」は「パーミャチ・アゾーヴァ」の後ろに合流すべきところであったのを、信号が不明瞭であったために「ルィーンダ」がそこに残ってしまったがために、「インペラートル・ニコライ1世」の後ろに入ろうとした。不規則な行動を取ったことで、「ナヒーモフ提督」は前を走っていた「パーミャチ・アゾーヴァ」にすんでのところで体当たりをしてしまいそうになった。「ナヒーモフ提督」は「パーミャチ・アゾーヴァ」を衝角で突き刺すところであり、そうなれば「パーミャチ・アゾーヴァ」は沈没もしかねなかったが、「パーミャチ・アゾーヴァ」のチュフニーン艦長の的確な行動によって、衝突は軽度の接触と僅かな損傷ですんだ。 トゥーロンでの式典は成功裏に進められた。フランスとロシアの同盟関係は進められ、翌1894年に露仏同盟という形で完成する。将校らには、シャムや日本におけるのと同様、勲章の雨が降り注いだ。また、この訪仏の際にフランス海軍の艦隊装甲艦「ジョーレギベリ」の進水式が催され、これに触発されたロシア帝国海軍はのちにフランス製の艦隊装甲艦「ツェサレーヴィチ」を発注することになる。 フランスへの親善訪問を終えた地中海艦隊は、いつもの駐留地であるギリシャのピレウス港に戻った。艦隊はここから地中海沿岸諸港を巡航し、それ以外の期間は歴史的に名高いサラミス島の湾やポロス島の投錨地(英語版)で日常的な軍事教練と艦船演習に取り組んでいた。 当時、ポロス島にはナヴァリノの海戦で使用された基地の遺構が残されており、戦列艦「アゾーフ」の足跡を偲ぶことができた。「パーミャチ・アゾーヴァ」の乗員らは、この遺跡を修復した。当時、ロシアとギリシャの関係はロシア出身の王妃のお蔭もあってたいへん良好であった。地中海艦隊の乗員らは、砲艦「ドネーツ」や装甲艦「インペラートル・ニコライ1世」の乗員らが中心となってポロス島にロシア船員らのための居住区を建設した。 「パーミャチ・アゾーヴァ」は、この任務を1894年度まで続けた。その間、艦はまったく平和で幸福な時代を過ごしたのである。
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