土地および邸宅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/13 04:50 UTC 版)
「ロック・キャッスル (テネシー州ヘンダーソンヴィル)」の記事における「土地および邸宅」の解説
1788年、ダニエル・スミスはテネシー州サムナー郡のカンバーランド川およびドレイク川に沿った4,722エーカー (1,911 ha)の土地を入手した。これはアメリカ独立戦争の功績の対価としてノースカロライナ州から与えられたものである。元々所有していた土地と合計すると3,140エーカー (1,270 ha)となる。娘のポリーは父の死後151エーカー (61 ha)の土地を、サラは1,510エーカー (610 ha)の土地を、邸宅を含む残りの土地は息子のジョージ・スミスが引き継いだ。 徐々に土地は売り払われ、現在邸宅の周りの18エーカー (7.3 ha)が残るのみである。 邸宅は元々川の近くにあったが、現在は移転している。周囲には奴隷小屋、冷蔵庫代わりのスプリングハウス、燻製小屋があった。1954年、オールド・ヒッコリー湖が造成され、邸宅の後ろのほとんどの土地が湖となった。燻製小屋は入り江に水を貯めておくため泥をつんでいた。新しいブロックと古いブロックは明らかに違っている。他に馬車小屋、納屋などがあった。 10年から12年間かけて岩を掘り起こして3箇所に分かれた邸宅が建てられ、1784年に完成した。最初の建物は1階にキッチン、2階に寝室、3階に屋根裏部屋のある3階建てであった。家族全員が1つの寝室に一緒に過ごした。耐火性のある石造りの邸宅は火事やネイティヴ・アメリカンの襲来から守るために建てられた。2番目の邸宅も3階建てであった。1階は地下となり、2階はダイニング、3階には4つの屋根窓があったが、その後なくした。どの部屋がどういった用途で使われていたか現在は知ることができない。暖炉はブラック・メープルの木で覆われていた。3番目の邸宅は前面に位置し、もっともフォーマルであった。主寝室があり、下の階には化粧室があった。またスミスの書斎の壁は装飾されている。上階にはジョージの寝室の他に使途不明の部屋があった。この邸宅はテネシー州での初期のフェデラル様式の建造物とされていた。しかし息子のジョージまたはその息子のハリーはフロントポーチを増築し、おそらくその時代に流行していたグリーク・リヴァイヴァル様式に作り変えてしまった。この邸宅の部屋数は全8室であった。 窓ガラス、蝶番、釘など近隣で手に入らない資材は東部から調達した。ブロックの間に使うセメントは石灰モルタルと砂で使用した。岩は交互に積むフランス積みで建立された。屋根は元々松の板を使い、家の周りを白いフェンスが囲い、馬に乗るための台が出入り口に取り付けられていた。フェンスは修繕されながら当時の状態で残っている。 スミスの甥であるスミス・ハンズボロが建設を行なった。彼は現場監督としてスミスに進捗状況だけでなく小麦の育ち具合を手紙で伝えていた。仕事で家を離れている時も状況を把握したかったスミスがおそらく指示したものとされる。 家庭菜園としてハーブを植え、桃の果樹園もあった。スミス家は1ガロン5シリングで売っていたピーチ・ブランデーで地元で有名であった。ハーブは料理や薬として使用していた。スミスは医学を学んでいたため、この菜園は有用であった。彼らが植えていたローズマリーやミントは消化や抑うつを助けるとされている。「花の女王」と呼ばれるダマスク・ローズも植えており、香水として使われたほか火傷の治療などにも使われていた。メインの農場では小麦や綿花を育てていた。
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