ダニエル・スミス
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「ロック・キャッスル (テネシー州ヘンダーソンヴィル)」の記事における「ダニエル・スミス」の解説
ダニエル・スミスはダンモアの戦争で大尉、アメリカ独立戦争で大佐、民兵の准将を務めた。また権利章典作成委員会メンバー、南西部領土長官、アメリカ合衆国上院議員でもあった。中部テネシーの測量を行った人物でもある。 1748年、ダニエル・スミスはバージニア州スタフォード郡で双子の1人として生まれた。10月24日、エルボ・ウォレン・バプティスト教会にて洗礼を受け、その5日後に双子の姉または妹であるサラが亡くなった。スミスはメリーランド州ボルチモアに住み、その後トーマス・ウォーカーの家に移り住んだ。トーマス・ジェファーソンの教師とされるウォーカーのもとでスミスは医学や測量を学んだ。ただしジェファーソンとスミスが知り合いであったかどうかは定かではない。 スミスはウィリアム・アンド・メアリー大学でも学んだ。大学の名簿には名前はなく、大学に認定されたバージニア州の測量資格は存在したが学生であったということにはならない。 スミスは大佐としてアメリカ独立戦争に参加し、パトリック・ヘンリーにより法務官に任命された。その後テネシー州ワシントン郡民兵少佐に昇進した。1778年、ダニエル・スミスは道路制定の委員に任命された。1779年、ウォーカーと共にバージニア州とノースカロライナ州の境界制定を命じられた。これは後にケンタッキー州とテネシー州を分割する境界線となった。1778年4月、スミスはワシントン郡保安官に推薦され、同年、関税局長に任命され、同年終盤、Examiner of the Bills of Credit に任命された。1790年、ジョージ・ワシントン大統領は南西部領土のオハイオ川南の領土の長官に任命した。 後にスミスはインディアンとの交渉係となり、テネシー州のチェロキー・インディアンとの交渉の多くに関わった。またスミスは測量士としてテネシー州とケンタッキー州の地図作成を行なった。彼は土地に、州東にあったチェロキー村の名と同じ名の「Tenasee 」または「Ten-ah-see 」と発音する「Tanasi 」と名付けた。テネシー州憲法の草案を作成し、1796年、大陸会議の憲法草案の作成者の1人となった。彼は2回テネシー州選出のアメリカ合衆国上院議員となった。また後にテネシー州の州都となるナッシュビルの測量を行なった。 1773年、彼はサラと結婚した。1783年、アメリカ独立戦争での功績の対価としてヴァージニア州から与えられた、後にテネシー州となる土地に妻と子供2人を連れて移住し、小さなログハウスに居住したがその後間もなく、頻発していたネイティヴ・アメリカンの急襲の1つで焼失した。 近所に住み親友であったアンドリュー・ジャクソンのログハウスの跡地はハンターズ・ヒルに現存している。このログハウスはスミス邸の下流にあり、2階建てであった。スミスはジャクソン退任後空席であったテネシー州選出上院議員となった。ちなみにスミスはジャクソンと義理の親戚である。
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