園内施設と画像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:35 UTC 版)
正門 正門は本瓦葺四脚門である。柱などには、1868年(明治元年)10月の弘道館戦争の折に、城側から撃たれたと思われる弾痕が残っている。 正庁(学校御殿) 正庁(学校御殿)は弘道館の管理棟である。正庁の北と南にそれぞれ文館(居学・講習・句読・寄宿の四寮と、教職詰所などからなる)と武館(北側の撃剣場、間の槍術道場、南の居合・柔術・長刀などの稽古場、計三棟からなる)を、南庭に武術訓練のための対試場を配している。正庁の北東に位置する四室は至善堂と呼ばれた(後述)。 至善堂 正庁の北東に位置する四室。藩主の控室、その子弟の学習の場として使用された。襖や壁面には、和歌の扇面を掲げたと言われる。現在、襖には要石歌碑の碑文を記した掛け軸が掲げられている。 孔子廟 孔子廟は神儒一致の教義に基づき、1857年(安政4年)に鹿島神社とともに建立された。瓦葺き入母屋造り。屋上に鬼犾頭(きぎんとう)、鬼龍子(きりゅうし)を据えている。1945年(昭和20年)に焼失し、1970年(昭和45年)に再建された。 八卦堂 八卦堂は『弘道館記』を刻んだ石碑を納めた覆堂である。銅板葺きの八角堂。1945年(昭和20年)に焼失し、1953年(昭和28年)に再建された。 学生警鐘 学生警鐘は、弘道館内に時刻を知らせるものとして利用されていた。鐘楼は孔子廟の西側に建てられている。鐘の背面には「物学ぶ 人の為にと清かにも 暁告ぐる 鐘のこえかな」という斉昭の直筆がある。2009年(平成21年)3月、学生警鐘の保護を目的に、茨城県がレプリカを作成し、実物は弘道館内で展示を行った。 鹿島神社 常陸一の宮である鹿島神宮から、1857年(安政4年)に分祀された。社殿は1945年(昭和20年)の空襲により焼失し、1974年(昭和49年)の伊勢神宮の式年遷宮の際に風日祈宮の旧殿が譲渡され翌年に移築された。 種梅記碑 斉昭の自撰自筆による、偕楽園や弘道館など水戸に多くの梅を植えた由来を記したもの。梅を鑑賞するほか、実を梅干しにして戦に役立てるなどの目的などが記述されている。 高さ約198cm、幅約98cm、厚さ約27cmの斑石で、八卦堂の南側に建っている。碑石は損傷しており、上半分が風化して文字が読めない状態である。拓本は至善堂で見ることができる。 弘道館記碑 斉昭が弘道館建学の精神を記した『弘道館記』を刻んだ石碑である。園内の八卦堂内に設置されている。碑は高さ318cm、幅191cm厚さ55cmの巨大な寒水石製であり、斉昭自筆の書を刻んでいる。八卦堂は普段は閉じられており碑の現物を見ることはできないが、拓本を弘道館の正庁正席の間で見ることができる。碑は1945年(昭和20年)の戦災で八卦堂に直撃した焼夷弾のため損傷し、その後、1953年(昭和28年)と1972年(昭和47年)に修復がされた。2011年(平成23年)の東日本大震災で大きく崩れ、その修復作業が文化庁によってなされ2013年(平成25年)10月に完了した。その際、1953年(昭和47年)修復時に本体背面に施されたコンクリートが除去されてそれ以前の姿にほぼ復元され、11月18日には復旧記念式典が開かれた。 要石歌碑 鹿島神社に近い場所に設置されている。徳川斉昭による歌が刻まれている。大きさは高さ約203cm,幅約190cm、厚さ約34cmである。 歌の内容は「行く末も踏みなたかへそあきつ島 大和の道そ要なりける」(原文「行末毛 富美奈 太賀幣会 蜻島 大和乃道存 要 那里家流」)と、日本人の進む道について歌っている。 また、石碑の写しは弘道館内の至善堂に掛けられている。 至善堂に掲げられた要石歌碑の掛け軸 八卦堂 学生警鐘 鹿島神社 種梅記碑 要石歌碑
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