国際反戦会議 - アムステルダム=プレイエル運動
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「アンリ・バルビュス」の記事における「国際反戦会議 - アムステルダム=プレイエル運動」の解説
さらにロマン・ロランとともに「反ファシズム国際委員会(Comité antifasciste international)」を結成し、世界各国の知識人に「国際反戦会議(Congrès mondial contre la guerre)」の開催を呼びかけた。当初は1932年7月にジュネーヴで開催される予定であったが、最終的に「反帝国主義戦争国際会議」として同年8月にアムステルダムで開催され、フランスからバルビュス、ロマン・ロランのほか物理学者ポール・ランジュヴァン(1934年結成の反ファシズム知識人監視委員会副会長)、『リュマニテ』紙編集長を務めた共産党員のマルセル・カシャン(フランス語版)、ソ連から作家のマクシム・ゴーリキー(1934年にソビエト連邦作家同盟を結成)、全ソ労組中央評議会第一書記のニコライ・シュヴェルニク、ドイツからミュンツェンベルク、女性解放運動家・ドイツ共産党員のクララ・ツェトキン、反ナチズムの作家ハインリヒ・マン(フランスに亡命)、米国に亡命していたノーベル物理学賞受賞者アインシュタイン、英国から哲学者バートランド・ラッセル(1950年にノーベル文学賞受賞)、米国から社会主義または共産主義の作家セオドア・ドライサー、ジョン・ドス・パソス、アプトン・シンクレア、日本から(モスクワに滞在していた)片山潜らをはじめとし、世界29か国から2,196人が参加する大規模な反戦会議となった。参加者2,196人の内訳は共産党員830人、社会党員291人、左翼社会党員24人、左翼反対派(共産主義者)10人、無所属1,041人であり、ロマン・ロランは思想的・社会的立場の異なる団体の団結を呼びかけ、バルビュスは開会演説で、「セクト主義をはなれて、帝国主義戦争反対の闘争という根本思想に導かれた」討論によって、本会議を超党派的な反戦・反ファシズム・平和運動につなげたいとした。 翌1933年の第2回反帝国主義戦争世界会議はパリ8区のサル・プレイエルで開催され、以後、アムステルダム=プレイエル運動(フランス語版)と称された。この会議の参加者は1934年結成の反ファシズム知識人監視委員会、1935年6月にファシズムから文化を守ることを目的に、バルビュス、ロマン・ロラン、マルロー、ジッド、アラゴンらを中心に開催された第1回文化擁護国際作家会議(フランス語版)(ソ連からイリヤ・エレンブルグ、イサーク・バーベリ、ドイツからハインリヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、アンナ・ゼーガース、オーストリアからローベルト・ムージル、英国からオルダス・ハクスリーらが参加)にも参加し、同年の人民戦線の結成につながった。 同じ1935年の8月30日、バルビュスはモスクワ訪問中に急性肺炎により62歳で死去した。 50万人の市民がペール・ラシェーズ墓地に向かう葬列を見送った。
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