国家再編成プロセスと汚い戦争とは? わかりやすく解説

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国家再編成プロセスと汚い戦争(1976年-1982年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 07:06 UTC 版)

アルゼンチンの歴史」の記事における「国家再編成プロセスと汚い戦争(1976年-1982年)」の解説

軍事政権樹立独裁政権率いたホルヘ・ラファエル・ビデラ ビデラ後継政権担ったものの経済失政失脚したロベルト・エドゥアルド・ビオラ 1976年3月26日軍事評議会クーデター起こし陸海空三軍推薦によりホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍大統領就任すると、アルゼンチンにも再び軍事政権樹立された。ビデラ政権は「国家再編成プロセス」と称する軍民協調独裁体制を敷く一方、「汚い戦争」を対ゲリラ戦略として採用し反体制派およびゲリラみなされたものを非合法的な手段徹底的に弾圧した。これにより主だった都市ゲリラ壊滅し治安維持大きな成功収めたものの、この過程秘密裏に「行方不明になった者は9,000人から30,000人にも上り国民統合大きな禍根残した経済面では「アルゼンチン革命」で活躍したテクノクラートが再び登用されテクノクラート主導による工業化進めるためにミルトン・フリードマン新自由主義影響受けたマルティネス・デ・オス経済相により、外国資本積極導入し市場原理最優先する経済開発進められたが、この政策国内産業甚大な被害与えたビデラ時代には物価上昇とともに3ヵ月毎に賃金自動的に上昇する賃金スライド制が導入されたが、これは効果乏しかったこのような状況の中、1978年アルゼンチン開催されワールドカップアルゼンチン初優勝し、世界的なサッカー強豪としての存在感発揮してアルゼンチンにとって久々に明るいニュースとなるが、この時にアルゼンチンワールドカップ観戦に来た外国人観光客観察によって軍事政権による人権侵害国際社会明るみに出ることにもなった。1978年末にはチリアウグスト・ピノチェト政権と、アルゼンチンチリ相互に領有主張するパタゴニアビーグル水道ピクトン島・レノックス島・ヌエバ島巡って紛争直前事態となったが、これはローマ教皇フアン・パブロ2世仲介によって回避された。 ビデラ政権インフレ激化経済極端な悪化退陣し、1981年3月軍事評議会メンバー陸軍総司令官ロベルト・エドゥアルド・ビオラ将軍大統領就任したが、ビオラ政権下では数度に渡るペソ切り下げが行われインフレ悪化し経済的な失政責任追及され1981年11月22日ビオラ更迭された。 ビオラの後を継いで同年12月11日ビオラ後任陸軍総司令官だったレオポルド・ガルティエリ工兵中将大統領就任したが、ガルティエリは権威主義的な性格が前二者よりも遥かに強く、さらにビデラ時代賃金スライド制が廃止されたことにより国民の不満も高まった。ここに来てガルティエリは軍政存続のために、大きな賭け出た

※この「国家再編成プロセスと汚い戦争(1976年-1982年)」の解説は、「アルゼンチンの歴史」の解説の一部です。
「国家再編成プロセスと汚い戦争(1976年-1982年)」を含む「アルゼンチンの歴史」の記事については、「アルゼンチンの歴史」の概要を参照ください。

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