国家再編成プロセスと汚い戦争(1976年-1982年)
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「アルゼンチンの歴史」の記事における「国家再編成プロセスと汚い戦争(1976年-1982年)」の解説
軍事政権を樹立・独裁政権を率いたホルヘ・ラファエル・ビデラ ビデラの後継政権を担ったものの経済失政で失脚したロベルト・エドゥアルド・ビオラ 1976年3月26日に軍事評議会がクーデターを起こし、陸海空三軍の推薦によりホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が大統領に就任すると、アルゼンチンにも再び軍事政権が樹立された。ビデラ政権は「国家再編成プロセス」と称する軍民協調の独裁体制を敷く一方、「汚い戦争」を対ゲリラ戦略として採用し、反体制派およびゲリラとみなされたものを非合法的な手段で徹底的に弾圧した。これにより主だった都市ゲリラは壊滅し治安維持に大きな成功を収めたものの、この過程で秘密裏に「行方不明」になった者は9,000人から30,000人にも上り、国民統合に大きな禍根を残した。経済面では「アルゼンチン革命」で活躍したテクノクラートが再び登用され、テクノクラート主導による工業化を進めるためにミルトン・フリードマンの新自由主義に影響を受けたマルティネス・デ・オス経済相により、外国資本を積極導入し市場原理を最優先する経済開発が進められたが、この政策は国内産業に甚大な被害を与えた。ビデラ時代には物価上昇とともに3ヵ月毎に賃金も自動的に上昇する賃金スライド制が導入されたが、これは効果に乏しかった。このような状況の中、1978年にアルゼンチンで開催されたワールドカップでアルゼンチンは初優勝し、世界的なサッカー強豪としての存在感を発揮してアルゼンチンにとって久々に明るいニュースとなるが、この時にアルゼンチンにワールドカップを観戦に来た外国人観光客の観察によって軍事政権による人権侵害が国際社会の明るみに出ることにもなった。1978年末にはチリのアウグスト・ピノチェト政権と、アルゼンチンとチリが相互に領有を主張するパタゴニアのビーグル水道のピクトン島・レノックス島・ヌエバ島を巡って紛争直前の事態となったが、これはローマ教皇フアン・パブロ2世の仲介によって回避された。 ビデラ政権はインフレの激化や経済の極端な悪化で退陣し、1981年3月に軍事評議会メンバーで陸軍総司令官のロベルト・エドゥアルド・ビオラ将軍が大統領に就任したが、ビオラ政権下では数度に渡るペソ切り下げが行われインフレは悪化し、経済的な大失政の責任を追及されて1981年11月22日にビオラは更迭された。 ビオラの後を継いで同年12月11日にビオラの後任の陸軍総司令官だったレオポルド・ガルティエリ工兵中将が大統領に就任したが、ガルティエリは権威主義的な性格が前二者よりも遥かに強く、さらにビデラ時代の賃金スライド制が廃止されたことにより国民の不満も高まった。ここに来てガルティエリは軍政存続のために、大きな賭けに出た。
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