国境の全面開放へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:44 UTC 版)
「汎ヨーロッパ・ピクニック」の記事における「国境の全面開放へ」の解説
ただ、当初国境近くに滞留していた東ドイツ市民の多くは、ピクニックを東ドイツ当局の策謀ではないかと疑い、ピクニックが終了した段階でそのほとんどがハンガリー側にとどまっていた。さらに、これ以後も国境が開かれていると勘違いしたさらに多くの東ドイツ市民がハンガリーやチェコスロバキアに殺到し、ブダペストやプラハの西ドイツ大使館の周辺にも溢れかえるようになった。これはハンガリーにとっても重大な問題で、前年誕生したばかりの改革派のネーメト政権にとって国内の保守派の突き上げと東ドイツからの送還要求、そしてソ連の動向を見ながら苦慮していた。しかし、ソ連からは特段大きな苦情は起こらなかった。ネーメトは後に「ソ連の許容限度をテストする絶好の機会でした。」と語っている。 ハンガリー政府はこの時点ですでに西ドイツ側に肩入れしており、身柄を確保した東ドイツ市民をその後密かにブダペストのキリスト教会(ズグリゲット教会)に集めており、裏庭に多数のテントが張られて1000人を超す東ドイツ市民がテント生活をしていた。そして裏庭に面した窓から西ドイツ大使館職員が密かに西ドイツへのパスポートを作成していた。 8月22日、前夜に国境付近で越境しようとした東ドイツ人がハンガリー国境警備隊に射殺されたことを受けて、ネーメト首相は事態打開は国境を開くしかないと決断した。8月25日、ハンガリーのネーメト首相とホルン外相は西ドイツを訪問、コール首相、ゲンシャー外相と極秘の四者会談に臨んだ。ネーメト首相は、ハンガリー国内の東ドイツ難民について、人道的理由から自由に出国できることを認めると切り出し、9月半ばまでにオーストリア国境を開放する用意があるとして、その受け入れとして西ドイツに10万から15万人に達する東ドイツ市民を送り、彼らが入国できるようにするための施設などの対処をお願いしたい、その準備が完了次第にオーストリアへの国境を開放する方針を示した。この提案を受けてコール首相は感謝の念を伝え、難民の受け入れセンターとその輸送手段を急ぎ準備に入ることを約束した。最初はコールもゲンシャーも、どこまで信じていいのか疑った。ホーネッカー政権に鉄槌を下すようなもので、話がうますぎると思ったからである。しかしこれが最善の選択だと考えた経過を説明し、これ以上先に延すと国境警備兵に東ドイツ市民が射殺される事件が増えると予測されることで、この話を信じることになった。「ソ連は?」とゲンシャーが聞くと、「いや知らない。あなた方が準備が整ったと連絡を受けてから連絡する。」とネーメトは答えた。後にネーメトは、コールはこの時に目に涙を浮かべて、「ネーメト首相。ドイツ国民はあなた方とハンガリーの勇気を永遠に忘れない」と語ったと述べている。 そしてこの日の夜、コール首相はソ連のゴルバチョフに電話して、ゴルバチョフの真意を聞き、ゴルバチョフは「ハンガリー人はいい人たちだ。」 と答えてこの難民処理の解決方法を黙認することを伝えた。ハンガリーのこの決断と西ドイツの受け入れ、ゴルバチョフの黙認は、鉄のカーテンの不可逆的な除去と、ハンガリーのワルシャワ条約機構からの離脱を意味した。 8月31日、ハンガリーのホルン外相はベルリンにて東ドイツのフィッシャー外相と会談し、東ドイツに帰国する国民を処罰しないこと、西への移住申請に前向きに対応することを迫った。ホルンはさらに「15万人以上の東ドイツ人がバラトン湖の周辺でキャンプしており、帰国しようとしない。ハンガリーは東ドイツとの関係を損ねたくはないが、このような"非人道的な"状態を放置しておくことは出来ない」と述べ、ハンガリーはオーストリアの国境を完全開放するつもりだと告げた。二国間協定に基づき難民の送還を要求していたフィッシャー外相は「それは裏切りだ。あなた方に重大な結果をもたらすぞ。」と反論した。東ドイツはワルシャワ条約機構加盟国外相会議を提案してハンガリーに圧力をかけることを図ったが、ポーランドは拒否し、肝心のソ連も不参加で、ソ連を味方にしなければ自分たちでできることはほとんどないことを悟らざるを得なかった。 9月10日、ネーメト政権がオーストリアとの国境の国境管理の停止と全面開放を決定する。夕方にネーメト首相がテレビで公式発表すると、国内にとどまっていた東ドイツ市民はただちに国民車トラバントに乗って国境まで移動、11日午前0時をもって東ドイツとの協定 を破棄して国境を開放し、国内にいる東ドイツ市民を出国させた。オーストリア側は東ドイツ市民をビザなしで国内を通過させる協定を西ドイツと結んでおり、東ドイツ市民は用意された数十台のバスに分乗し、西ドイツ領内に入ってすぐのパッサウに建設された数万人が収容できる移民センターへ移動した。
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