営業一時休止と信三郎の独立
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「一澤帆布工業」の記事における「営業一時休止と信三郎の独立」の解説
2006年1月29日、「一澤信三郎さんを応援する会」が発足。大徳寺真珠庵、山田宗正住職が代表となり、義援金を一口一万円で募った。その後、京都政財界で大きな影響力を持つ有力者たちが相次いで三男(信三郎)側の支持を打ち出した。「裁判さえ勝てば、経営を握れると信太郎さんは考えたろうが、世の中そんなに甘くない」(山田住職)。「老舗の経営は店の空気や職人の心をつかんだ人でなければできない」(俵屋旅館、女将佐藤年)。後の「信三郎帆布」開店日に、国内だけでなく海外からも集まった義援金で、「京都新聞」朝刊(第14面)に「それはそれはうれしいカバンです。信三郎さん、ありがとう。」という全面広告が掲載された。 信三郎は、最高裁判決より前の2005年(平成17年)3月に、別会社の有限会社一澤帆布加工所(京都府京都市東山区進之町584、西村結城代表取締役)を設立しており、一澤帆布工業の製造部門の職人65人全員が、長年社長を務めた信三郎を支持して同社へ転籍し、一澤帆布加工所が、一澤帆布工業から店舗と工場を賃借する形で製造を継続していた。信三郎の一澤帆布工業社長解任後、信太郎は京都地方裁判所に店舗と工場の明け渡しを求める仮処分申請を行う。申請は認められ、2006年(平成18年)3月1日に強制執行された。その際、信三郎だけでなく、一澤帆布加工所へ転籍した職人たちも共に店を退去。一澤帆布工業は事実上、製造部門を全て失った形となり、2006年(平成18年)3月6日に一澤帆布店は営業を休止した。 信太郎の一澤帆布工業は、新たに本社近くに職人を10人、四国にある別法人の工場で18人(外注)の計28人の職人を確保し、材料である帆布を別の業者からの仕入れに切り替え、一澤喜久夫(四男)の技術指導の下、従前の帆布かばんを再現し、2006年(平成18年)10月16日より営業を再開。2007年(平成19年)2月には、信太郎サイドは京都七条公共職業安定所(整理番号 26020 - 4057571)を通して、職人5人を新たに募集。32歳までなら未経験者でも応募可能だとしている。なお、この際の開示情報によると、同月時点での従業員は10人。 一方、信三郎の一澤帆布加工所は、別に工場を確保。2006年(平成18年)3月21日に、「信三郎帆布」と「信三郎かばん(かばんは、左が布で、右が包)」を新たなブランド名とすることを発表。新しく設立する販売会社の株式会社一澤信三郎帆布から、一澤帆布加工所が製造の委託を受ける形で再始動。2006年(平成18年)4月6日には、「信三郎帆布」(しんざぶろうはんぷ)を一澤帆布店の道路(東山通)を隔てた斜向かいに開店した(後に一澤帆布店の並びに移転)。信三郎は、判決確定後も、「遺言書は贋物」「(2通目の)遺言書の内容は故人の人格を踏みにじったものだ」などと繰り返し公言しており、この騒動の顛末に対して不満を表明している。また、これまで鞄生地を納めてきた朝日加工は、信三郎を支持して一澤帆布との取引を拒否。一澤帆布へランドセルの製造を委託していた同志社小学校は、今後は一澤信三郎帆布に委託することを表明した。
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