営業不振と経営改革失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/26 07:31 UTC 版)
「天図軽便鉄路」の記事における「営業不振と経営改革失敗」の解説
困難の後に開業した天図軽便鉄路であるが、営業成績は姉妹会社の図們鉄道が好成績であったことと対照的に不振を極めた。収入は安定していたが支出はそれを上回る財務状況が続き、1928年頃からは大幅な減収となり累積赤字が膨張した。 その理由としては牛車や馬車による輸送に対抗できなかったことにある。鉄道開通以前から間島地域と朝鮮の間は牛車や馬車による物資輸送が行われていたが、鉄道建設に反対した延吉の人々が、道路の整備や輸送力の増強、更に輸送時間が同一の場合は馬車の使用を義務づけるなどの対抗策を行ったことが大きく影響している。 本来は蒸気機関車を使用した鉄道の輸送力が牛車や馬車に劣ることは考えられないが、天図軽便鉄路では赤字解消のために蒸気機関車を酷使したことにより輸送力が低下し減収、また機関車の修理費用捻出のために従業員への賃金不払いが発生し現場の士気が下がることで更に輸送力が低下、それを補完するために機関車の酷使を行うという悪循環が発生していた。 更には路線維持費用の膨張、脱線事故や人身事故の頻発による処理費用の増大も大きな負担となっていた。当線の経路は1911年の吉会鉄路調査の際に「建設費は抑制できるが安全性と維持管理費に問題がある」と指摘がなされており、初期投資を惜しんだことが招いた結果であった。 また経理処理を中華民国側の通貨建てとしたことも悪影響を与えた。当時は軍閥が割拠し貨幣制度にも統一性を欠如し、清代の秤量貨幣である「銀錠」や銀貨以外に、中華民国初期の銀貨、軍閥の作った銀行や省営銀行や民間銀行の発行した紙幣、日本や朝鮮などの外国の金貨や銀貨が流通していた。 天図軽便鉄路では奉天軍閥発行の銀本位通貨である「哈爾浜大洋票」を北満における標準通貨であるという理由で採用したが、1925年以降下落を続け、最終的には価値を失ったことも財務状況の悪化に大きな影響を与えた。 1927年3月、天図軽便鉄路は経営再建のため経営陣の更迭、運転部門での日本人技術者採用、人員整理、経理の銀建から金建への変更という改革案を提示した。 しかし協定通りになったのは経営陣の更迭・日本人技術者採用のみで、整理すべき人員は逆に増加、また経理通貨の銀建から金建への変更は実行できなかった。改革案は経営陣の交替に留まり、赤字体質の要因を除去することに失敗、事態はより悪化することとなった。
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