唐宋代
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「中国におけるイスラームの歴史」の記事における「唐宋代」の解説
詳細は「唐朝におけるイスラーム」および「宋朝におけるイスラーム」を参照 10世紀ごろに至るまで、中国を訪れて定住したムスリムは布教活動を行っておらず、陸海を通じたイスラームの影響はムスリム商人の交易活動に付随したものにとどまっており、イスラームは軍事的・経済的影響と共に自然に伝わっていった。また、文化面でも「回回医薬学」と呼ばれるイスラーム医学・薬学がもたらされた。 唐代においてはムスリムは商人として中国を訪れ、東は河南、山西、河北や山東に及んだ。玄宗の時代までは陸路でも「蕃客」や「胡人」と呼ばれたアラブ商人やペルシア商人が中国を訪れていたが、西域との経済的絶交の勅令を発して陸路が遮断されてからは海路が主要な経路となった。唐から北宋の時代にかけて最もムスリム商人の活動が顕著だった広州には数万人のムスリムが住んでいたとされ、大貿易港となった。宋代になっても陸路は遮断されたままだったが海路は繫盛していた。唐宋代のムスリムはこのように商人が多かったため富豪となるものも多く、西安大清真寺をはじめ、広州の懐聖寺や泉州の清浄寺など多くのモスクが建てられた。 当初のムスリム商人たちは冬季に本国へ帰っていたが、次第に永住するものが増え、名前や衣服、飲食は中国化していった。漢人との混血も進み、宋代には「土生蕃客」や「五世蕃客」と呼ばれる中国生まれの蕃客も出てきた。 『唐書』や『旧唐書』などには1日5回の礼拝やラマダン、ハラールや金曜礼拝、そのほかジハードについても正確に記されていたが、これらは単にアラブ人の習慣とみなされており、イスラームは宗教としてみなされていなかった。845年には武帝によって道教が国教化され、仏教やマニ教、ゾロアスター教などの外来宗教は全て首都長安を追放されたが、イスラームは追放されなかった。 751年にはアッバース朝との間でタラス河畔の戦いが行われ、唐朝は大敗したが、これはイスラームの本格的な東進には至らなかった。しかし中央アジアのイスラーム化は進み、中央アジア経由で中国に到達するムスリムが増えた。タラス河畔の戦いの以後、両国は妥協して使者を送り合い、安史の乱が起こった際には唐はアッバース朝に援軍を乞い、1,000人余りの援軍が送られた。彼らは鎮圧後も帰国せず、長安付近に定住した。 北宋の時代に記された『夢渓筆談』に初めて「回回」という名称が用いられた。西遼の時代には「回回」という呼び方は広まっていき、すべてのムスリムを指す名称になった。
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