和平への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 02:12 UTC 版)
1986年7月、社会主義ベトナムを率いてきたレ・ズアン書記長が死去した。新たに政権の座についた後継者チュオン・チン書記長は、ソ連のペレストロイカに倣い、それまでの硬直した社会主義体制からの脱皮を図り、12月に「ドイモイ」路線を採択し、市場経済と国際協調路線へと舵を切った。また、チュオン・チンは次々に政府首脳の入れ替えを行い、新体制の基盤を固めた。1988年6月、ベトナムは東南アジア長年の懸念であったカンボジア駐留軍の撤収をはじめ、翌1989年9月に撤退を終えた。これにより、カンボジアは国際社会によって和平へ導かれることとなる。 冷戦終結直後の1990年6月、日本の東京で「カンボジア和平東京会議」が開催された。続く1991年10月23日、フランスのパリで「カンボジア和平パリ国際会議」を開催し、国内四派による最終合意文章(パリ平和協定)の調印に達し、ここに20年に及ぶカンボジア内戦が終結した。 1991年11月には国際連合平和維持活動(PKO)の国際連合カンボジア先遣隊 (UNAMIC) がカンボジア入りし、1992年3月15日、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC 明石康事務総長)が実働を始めた。UNTACは日本の自衛隊にとっては初のPKOとなり、カンボジア内戦に関わった中華人民共和国にとっても初めて本格的に参加したPKOであった。1993年4月から6月まで国連の監視下で総選挙が行なわれ、ポル・ポト派をのぞく三派が参加した。選挙結果は、全120議席のうち、王党派のフンシンペック党が58議席、カンボジア人民党が51議席、ソン・サンの仏教自由民主党が10議席、その他1議席であった。これにより「二人首相制」となり、フンシンペック党党首でシハヌーク次男のラナリットが第一首相、カンボジア人民党のフン・センが第二首相に選出された。9月に制憲議会が新憲法を発布し立憲君主制を採択、ノドロム・シハヌークが国王に再即位した。 1998年4月には辺境のポル・ポト派支配地域でポル・ポトが死んだことが明らかとなり、この地も平定された。
※この「和平への道」の解説は、「カンボジア内戦」の解説の一部です。
「和平への道」を含む「カンボジア内戦」の記事については、「カンボジア内戦」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から和平への道を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から和平への道を検索
- 和平への道のページへのリンク