如月江・富良江の戦い
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英武昭勝元年(1076年)12月、郭逵・趙禼(中国語版)(ちょうせつ)の両将軍率いる宋軍は、10万の精鋭歩兵、1万の軍馬、20万の人夫をもって大越領内に侵攻。和斌率いる別働隊は海路で大越を目指した。対する李常傑は如月江の河畔に400隻の軍船を並べ、渡河を図る宋軍を阻んでいる。この後、宋軍は富良江に陣を移した。しかし戦闘が長引く中で大越軍の士気は減滅し、宋と講和を図る案が浮上し始める。一方の宋軍は南国の湿毒により心身を蝕まれ、兵士2万、人足8万が戦病死していたものの、宋軍は大越領のうち広源州(現在のカオバン省クアンホア県)、思琅州(現在のカオバン省ハラン県)、蘇茂州(現在のカオバン省とランソン省の境の地)などを獲得していた。 陳朝期に編纂された史書『越史略(中国語版)』によれば、宋越両軍の如月江における戦闘は、丙辰太寧4年7月の出来事である。李常傑が率いる水軍が宋軍と対峙する中、戦陣に従っていた昭文(ベトナム語版)と宏真(ベトナム語版)の二皇子が如月江で溺死する。両軍が川を挟み数か月もの間対峙する中、両軍は和平への道を探り出そうとする。 南宋の李燾が編纂した史書『続資治通鑑長編(中国語版)』巻二百七十九によれば、両軍の戦闘は神宗の癸卯熙寧9年12月とされる。「宋の将軍郭逵が率いる兵は大越軍大将の洪真太子を討ち、左郎将の阮根を捕虜としたため、乾徳(李仁宗)は恐れて降伏を請うた」という。ただし、李常傑は富良江での戦線に参戦していなかったともいう。宋越両者とも史書には自国の勝利を過大に記し、敗戦は過少にする傾向がある。
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