如月江・富良江の戦いとは? わかりやすく解説

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如月江・富良江の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 16:56 UTC 版)

李常傑」の記事における「如月江・富良江の戦い」の解説

英武昭勝元年1076年12月、郭逵・趙禼(中国語版)(ちょうせつ)の両将軍率いる宋軍は、10万精鋭歩兵1万軍馬20人夫をもって大越領内侵攻。和斌率い別働隊海路大越目指した。対す李常傑如月江の河畔400隻の軍船並べ渡河を図る宋軍を阻んでいる。この後、宋軍は富良江に陣を移した。しかし戦闘が長引く中で大越軍の士気は減滅し、宋と講和を図る案が浮上し始める。一方の宋軍は南国の湿毒により心身蝕まれ兵士2万人足8戦病死していたものの、宋軍は大越領のうち広源州(現在のカオバン省クアンホア県)、思琅州(現在のカオバン省ハラン県)、蘇茂州(現在のカオバン省ランソン省の境の地)などを獲得していた。 陳朝期に編纂された史書『越史略中国語版)』によれば、宋越両軍如月江における戦闘は、丙辰太寧4年7月出来事である。李常傑率い水軍が宋軍と対峙する中、戦陣に従っていた昭文(ベトナム語版)と宏真(ベトナム語版)の二皇子如月江で溺死する両軍が川を挟みか月もの間対峙する中、両軍和平への道探り出そうとする。 南宋李燾編纂した史書続資治通鑑長編中国語版)』巻二百七十によれば両軍戦闘神宗癸卯熙寧9年12月とされる。「宋の将軍郭逵が率いる兵は大越軍大将の洪真太子討ち、左郎将の阮根を捕虜したため乾徳李仁宗)は恐れて降伏請うた」という。ただし、李常傑は富良江での戦線参戦していなかったともいう。宋越両者とも史書には自国勝利を過大に記し敗戦過少にする傾向がある。

※この「如月江・富良江の戦い」の解説は、「李常傑」の解説の一部です。
「如月江・富良江の戦い」を含む「李常傑」の記事については、「李常傑」の概要を参照ください。

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