吾妻軌道とは? わかりやすく解説

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吾妻軌道

(吾妻温泉馬車軌道 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/22 07:53 UTC 版)

吾妻軌道
路線総延長 20.8 km
軌間 762 mm
電圧 550V 架空電車線方式直流

1927年(昭和2年)10月1日路線延長以前の経路図

鉄道省上越南線
東京電燈前橋線
鉄道省渋川駅 / 東京電燈渋川駅前
0.0 渋川(延長後は新町) 東京電燈新町
東京電燈高崎線
東京電燈伊香保線
阿久津
2.7 鯉沢
利根軌道
北牧
横堀
田ノ入
甲里
小野上
村上
岩井堂
下市城
青山
20.8 中之条

吾妻軌道(あがつまきどう)は、かつて群馬県渋川町(現、渋川市)の渋川から、現在の吾妻線のルートに並行するルートで中之条まで結んでいた路面電車路線。地元では中之条電車とよばれていた。

1912年吾妻温泉馬車軌道[注釈 1]の名前で軌間762mmの馬車鉄道として開業。その後、吾妻軌道・群馬電力・東京電力(現在の東京電力とは別。東邦電力系列で東力と呼ばれていた)・東京電燈を経て、1933年バスに取って代わられて運転休止、翌1934年に廃止となった。なお、吾妻軌道時代の1920年に直流550V電化され、路面電車となっている。

なお、渋川から鯉沢までは元東京電燈利根線であり、これは1911年利根軌道として開業、1924年休止したもので、廃線跡地がこの鉄道に転用された。

路線データ

地図外部リンク
  吾妻軌道
廃止鉄道ノート 東武鉄道 伊香保線
地形図上にカーソルをかざすと表示される「吾妻線」が吾妻軌道

廃止時点のもの

  • 路線距離(営業キロ):渋川 - 中之条間21.3km
  • 軌間:762mm
  • 駅数:13駅(起終点駅含む)
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化区間:全線(直流550V)
    • 村上変電所、三相誘導電動発電機(交流側3000V直流側550V)直流側の出力75kW、常用1、製造所小田電機[1]

歴史

馬車鉄道時代

吾妻地方においては1897年(明治30年)に有志により吾妻馬車鉄道株式会社の設立が発起出願されたが実現しなかったという[注釈 2][2]。やがて日露戦争の終わった明治40年代になり、吾妻地方の温泉客も増加するようになると地元の有志らにより馬車鉄道が計画され1910年(明治43年)10月に吾妻温泉馬車軌道株式会社が設立された。資本金は15万円に決定し社長は田中甚平が選ばれた[3]。そして群馬郡長尾村大字吹屋村字鯉沢の利根軌道の分岐点を起点[注釈 3][4]として吾妻郡中之条町大字伊勢町字伊参(林昌寺前)を終点とする11哩17鎖の軌道を敷設し、1912年(明治45年)7月に鯉沢 - 中之条間(渋川 - 鯉澤間は利根軌道と共同使用)の馬車鉄道の営業を開始した。

当時の利用者は地元の人よりも外来客が多く、終点となった中之条では四万温泉沢渡温泉川原湯温泉、草津温泉の各温泉へ向かう乗合馬車のターミナルとして発展していった。会社もまた乗合馬車の営業をしていたが、1916年(大正5年)3月に乗合馬車部と四万温泉馬車合資会社が合併し四万馬車合資会社を設立した(本社は吾妻軌道本社の構内)。そして中之条 - 四万間及び中之条 - 川原湯間で乗合馬車の営業をした。ほかでは1914年(大正3年)から草津馬車合資会社が中之条 - 草津間に乗合馬車の営業をしていた。

電気軌道以降

大正時代になり吾妻の温泉は年々盛況となり、四万温泉では大正元年には温泉客数が66,505人であったのが大正3年には77,123人に大正6年には123,834人と倍増していった。これにささえられた馬車鉄道の経営は順調であり繁忙期は増発をしていたが、さらなる輸送力の強化を求められていた。この対策としての電化の構想は1917年(大正6年)頃からで、同じ軌間の花巻電気の電車を参考にして、軌道はできるだけそのまま使用し、急曲線や勾配の箇所を改良すれば建設費を抑制できるだろうとしていた[5]。1918年(大正7年)1月に建設費72,000円と見積もり、資本金を25万円に増資し、電化計画を進めた。

一方同年に、一足先に利根軌道が電化されることになったため、馬車では渋川まで乗り入れることが出来なくなり鯉沢折り返しとなって貨物の扱いも中止となった。会社は鯉沢から渋川まで連絡用の馬車を運転したり、自動車1台を用意して渋川-中之条間の直通運転をしたり、また利根軌道に対して鯉沢 - 渋川間の区間運転を要請するなど対応におわれた[6]

工事も終わり1920年(大正9年)11月に電車により運転がはじめられた。馬車時代に比べ列車の定員は12人から24人に増加し、所要時間も渋川から中之条まで2時間50分かかっていたのが1時間40分で結ぶようになり大幅に短縮した。温泉客も増加し大正12年の四万温泉は143,677人となり吾妻軌道も高収益を記録していた。

ところが吾妻軌道は電力会社の事業拡大競争(電力戦)により経営者がめまぐるしく変わっていく。群馬電力の社長田島達策は吾妻川上流地区の松谷、原町、川中に水力発電所を建設する計画を立て、子会社須川電力を創立することになり、その資材運搬のために吾妻軌道を買収した[注釈 4][注釈 5]。ところがその群馬電力は事業拡張のため経営難に陥っていたため、関東進出をねらっていた東邦電力により早川電力と合併させられ、新たに東京電力が創立された。さらに東京電力は東京電燈と合併されていくことになった。

将来の脅威となる自動車が中之条に登場したのは1915年(大正4年)6月である。このときは営業運転はされなかった。その後四万馬車合資会社により大正8年7月から中之条 - 四万間に米国製スチュードベーカー製5人乗り1台により運転を始めた。また貸切用にフォード製1台を所有していた。その後、路線を拡大し大正13年6月には渋川まで進出するようになった。また1927年(昭和2年)8月に発足した群馬自動車は急速に各温泉地への路線網を敷くようになり電車から乗客を奪っていった。

自動車の急速な進出により昭和元年の乗車賃収入32,603円であったのが昭和7年になると18,390円と急減してしまう。もはや電車の存在基盤は失われており昭和8年に休止すると復活することなく翌年には廃止されるに至った。大正9年に電車が開通してから僅か10年たらずであった。

電気事業

1911年(明治44年)10月20日に電気事業許可を受け、1912年(明治45年)5月に吾妻郡名久田村横尾の名久田川に名久田発電所(水力、出力75kW)が竣工した。そして5月3日[注釈 6][注釈 7]には中之条町の一部へ電気を供給を開始した。その後地域を拡大し、1913年(大正2年)4月には同郡原町にも供給されるようになった[注釈 8]

1914年(大正3年)10月同郡沢田村四万に四万発電所(水力、出力17kW)が竣工し四万温泉にも電灯が点くようになった。会社は発電所を2ヶ所所有し、中之条町、沢田村及び原町の一部に供給していた(大正4年6月現在)。このうち原町は町営で電気事業を行うことになり1922年(大正11年)に原町の供給は停止された。

発電所は電力会社に合併された後も使用されていたが水害により被害を受けたため廃止された。

年表

  • 1910年(明治43年)10月17日吾妻温泉馬車軌道設立
  • 1912年(明治45年)5月3日中之条町へ電燈供給開始
  • 1912年(明治45年)7月22日 鯉沢 - 伊勢町林昌寺前間、開業
  • 1912年(大正元年)11月1日 利根軌道に乗り入れ開始[注釈 9]
  • 1913年(大正2年)7月27日 吾妻軌道に社名変更
  • 1918年(大正7年)1月21日 利根軌道電化のため鯉沢 - 伊勢町林昌寺前間の折り返し運転になる。
  • 1920年(大正9年)11月 全線電化
  • 1924年(大正13年)11月4日 群馬電力が吾妻軌道を合併
  • 1925年(大正14年)3月6日 渋川 - 鯉沢間を開業。元の利根軌道線転用
  • 1925年(大正14年)3月16日 群馬電力・早川電力が合併し東京電力発足
  • 1927年(昭和2年)8月26日 伊勢町林昌寺前を中之条に変更(許可)
  • 1927年(昭和2年)10月1日 新町(渋川を改称) - 渋川間開通。前日まで乗り入れていた渋川新町のターミナルの使用を中止し、鉄道省渋川駅前まで路線を延長して渋川とする[20]
  • 1928年(昭和3年)4月1日 東京電燈が東京電力を合併
  • 1933年(昭和8年)3月 渋川 - 中之条間休止
  • 1934年(昭和9年)9月30日 渋川 - 中之条間廃止[21]

輸送・収支実績

年度 人員(人) 貨物数量(噸) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) 雑収入(円) 雑支出(円)
1912年(大正元年) 292,040 1,145 23,872 18,791 5,081 4,053/利子29 利子6,918
1913年(大正2年) 510,140 3,490 26,899 26,302 597 電気7,603/利子71 利子8,369
1914年(大正3年) 48,305 3,200 30,375 22,444 7,931 電気8,389/利子120 電気1,791/利子6,236
1915年(大正4年) 42,878 3,244 25,008 22,704 2,304 電気14,217/利子47 電気6,140/利子3,467
1916年(大正5年) 51,403 2,765 28,845 22,407 6,438 12,773 副業5,099/利子4,696
1917年(大正6年) 57,670 2,718 34,593 29,078 5,515 16,315 副業9,050
1918年(大正7年) 58,169 330 34,812 32,194 2,618 20,611 副業9,642/利子2,246
1919年(大正8年) 27,261 40,437 34,947 5,490 38,811 副業19,567/利子4,413
1920年(大正9年) 53,223 11,464 9,638 1,826 11,638 副業2,470
1921年(大正10年) 77,547 770 85,644 87,762 ▲ 2,118
1922年(大正11年) 88,501 5,852 93,835 70,084 23,751
1923年(大正12年) 92,885 4,598 92,135 68,389 23,746 31,530 13,162
1924年(大正13年) 60,055 2,147 46,434 40,506 5,928
1925年(大正14年) 62,291 3,855 55,202 58,027 ▲ 2,825
1926年(昭和元年) 73,395 1,941 39,283 32,237 7,046
1927年(昭和2年) 94,799 1,442 38,737 35,827 2,910
1928年(昭和3年) 128,344 7,509 51,710 42,963 8,747
1929年(昭和4年) 122,149 12,421 49,172 53,782 ▲ 4,610
1930年(昭和5年) 102,836 690 29,553 35,777 ▲ 6,224
1931年(昭和6年) 99,463 114 25,215 29,488 ▲ 4,273
1932年(昭和7年) 93,656 27 18,950 27,903 ▲ 8,953
1933年(昭和8年) 81,656 44 15,014 22,443 ▲ 7,429

鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道統計資料より(国立国会図書館デジタルコレクション)

  • 1912-1913年の人員は疑問。1924年以降の雑収入、雑支出勘定は電力会社に合併されたため省略した。

車両

  • 電車は木製単車で4両(1 - 4)在籍した。岩崎レール製で定員24人、車体幅1,330mm、自重3噸、電動機は20馬力が2個で小田電気製、制御器は三菱製であった。また附随客車は木製単車で6両在籍した。
  • 電気機関車は形態がL型の2軸車が3両在籍した。自重4噸、電動機は15馬力が2個。前歴は足尾銅山と伝えられている。1929年に元利根軌道の東京電灯沼田線から1両を転用した。電動機は25馬力が2個、L型2軸車[22]

運行状況

馬車鉄道時代の明治45年7月の時間表によると渋川-中之条間11往復(一部は乗客がある場合の臨時便)渋川発は午前7時から午後5時までで所要時間は2時間50分。中之条発は午前6時から午後4時までで所要時間は2時間30分であった[23]

停留所一覧

文献により差異がある。

  • 『渋川市誌 第3巻 通史編 下 近代・現代』270頁に掲載の営業報告書による大正2年時の馬車鉄道時代
渋川 - 阿久津 - 鯉沢 - 北牧 - 寄島 - 石合 - 田ノ入 - 甲里 - 村上 - 岩井堂 - 市城 - 青山 - 中之条
  • 日本鉄道旅行地図帳』23頁 このうち小野子・市城は後の田ノ入・下市城と同一でない可能性もある
渋川 - 阿久津 - 鯉沢 - 北牧 - 横堀 - 木ノ間 - 小野子(→田ノ入)- 甲里 - 村上 - 岩井堂 - 市城(→下市城)- 青山 - 中之条[注釈 10]
  • 『日本の市内電車-1895-1945-』229頁 - この本によれば名称は判明する限りは最終のもの。
渋川 - 大正橋通 - 新町 - 北新道 - 公園下(→公園館前)- 坂下町 - 鯉沢 - 原 - 北牧 - 寄居 - 木ノ間 - 横堀 - 田ノ入 - 甲里 - 箱島渡船場 - 西滝 - 塩川 - 岩井堂 - 下赤城 - 上赤城 - 市城稲荷前 - 青山 - 下宿 - 明神前 - 銀行前 - 求支館前 - 小学校前 - 中之条
甲里には馬を交替させるための厩舎があり、電化後は変電所が設置された[24]

接続路線

事業者名・路線名は当線営業時

脚注

注釈

  1. ^ 吾妻温泉馬車鉄道と称する文献もあるが国立公文書館所蔵の鉄道省文書「商号吾妻温泉馬車軌道会社を吾妻軌道と変更届」により吾妻温泉馬車軌道を正とした。
  2. ^ 原町の山口六平により渋川を起点とし中之条町、原町、長野原町を経て草津温泉に至る馬車鉄道を計画し1896年(明治29年)5月に出願された。翌明治30年9月に吾妻馬車鉄道株式会社の発起を申請し、10月に認可された。しかし資本金を18万円とした株式の応募は芳しくなく、明治31年5月に渋川 - 原町に区間を短縮し、資本金を6万円に変更したが実現できなかった。
  3. ^ 鯉沢より先に吾妻橋がありここを過ぎると渋川市街になる。町内への軌道乗り入れ案に反対する意見が町会で論議され、県知事に意見書が提出されている。
  4. ^ 電力会社が発電所建設のため鉄軌道を傘下におさめることは草津軽便鉄道、利根軌道の例がある。
  5. ^ 発電所の計画は遅れ渋川からトラック、トラクターで資材が運搬された。
  6. ^ 電気事業要覧(国立国会図書館デジタルコレクション)では6月1日。
  7. ^ 「群馬の水力発電史』90 - 91頁の田中甚平日記では5月3日となっている。
  8. ^ 電気王とよばれた才賀藤吉の関与した会社として当時の新聞にも紹介されているが文献では確認できず、どの程度まで関与したか不明。
  9. ^ 参考文献[7][8]では吾妻温泉馬車軌道による利根軌道への乗り入れ開始時の起点となった利根軌道の高崎水力電気との接続駅名を「渋川中塚町」としている。 しかしながら、
    • 参考文献[7]内の年表では利根軌道による延長開業区間の廃止申請及び認可年月日まで明記されている事から、申請側の記録などの公文書あるいは二次資料を根拠にしていると思われるが、国立公文書館デジタルアーカイブでweb公開されている利根軌道関連の公文書や、鉄道統計と公文書を基にした参考文献[9]では利根軌道の営業区間については「渋川 - 沼田」で一貫していて「渋川中塚町」の駅名は見当たらない。「中塚」の掲載例としては参考文献[10]に、「利根軌道 明治40.6.4特許、区間群馬県渋川町中塚、同郡沼田町間」とある。ところが参考文献[11]には未開業線欄にも掲載なし。
    • 参考文献[9][12][13][14][15]によれば群馬鉄道馬車・高崎水力電気の渋川側の終端の駅・停留所の名称は「渋川」だが、参考文献[7]は利根軌道延長開業後の「渋川長塚町」と記し、渋川新町のターミナル内の高崎水力電気の駅名についても東武鉄道時代の「渋川新町」を用いるなど時系列による駅・停留所名の変遷が反映されていない。
    • 参考文献[7]では、利根軌道の渋川側の延長開業の時期を 以下引用大正元年9~10月頃か 引用終了。 と推定しているが、参考文献[16]では、以下引用明治44年には、この接続点の南側にターミナルを作り(中略)明治45年には、この狭軌ターミナルから、吾妻温泉馬車軌道の中之条ゆき鉄道馬車も、利根のレールを使って出るようになりました。引用終了。 としている。参考文献[9]では1914年度・1917年度にそれぞれ路線短縮(-09C)が記録されているが、延長開業と延長先の駅名については特に記載なし。
    • 吾妻温泉馬車軌道については、参考文献[8]内の年表では、明治45年7月19日に「鯉澤 - 伊勢町林昌寺前間」が開通し、大正元年11月1日に利根軌道に乗り入れ開始としてある。参考文献[9]では、鉄道統計を基に1912年7月22日に開業し、営業区間は「渋川 - 中之条」としてある。参考文献[17]では許認可の履歴は「明治四五、七、一九 運輸開始ノ儀報告ノ件(「開」の門構えは略字)」「大正元、一〇、二 監一六三三 利根軌道ト接續工事施行ノ件」「大正元、一〇、三一 運輸開始許可ノ儀報告ノ件」となっているが、営業区間や駅名の記載はない。
    • 参考文献[18]によれば、合併以前の旧渋川市の地名(字)は伝統的に通称の町名を用いてきた。参考文献[19]によれば明治期、現地の地名(字)は群馬郡渋川町「南横町」であったが、明治末頃に「長塚町」が設置されている。地名と鉄軌道の駅・停留所名は必ずしも一致するものではないが、少なくとも当時、現地の地名(字)が「中塚町」と通称された事実はないと思われる。

    上記の通り参考文献[7][8]による利根軌道と吾妻温泉馬車軌道に関する記述内容は、
    • 当時の公文書や出版物[15][14][19][10]
    • もしくは出典を示してある資料[9]
    • 利根軌道・吾妻温泉馬車軌道と接続していた高崎水力電気の路線を引き継いだ東武鉄道の資料[12][13]
    • 出典が提示されていない資料[16]
    これらの渋川付近の利根軌道・吾妻軌道や関連する事項の参考文献と食い違いがある上に「渋川中塚町」の駅名に関する出典も明示されず、他の参考文献にも「渋川中塚町」という駅名を裏付ける記述は今までのところ参考文献[10]の特許「群馬県渋川町中塚」が唯一。利根軌道の営業区間については「渋川 - 沼田」で一貫し、吾妻軌道の営業区間については全面開通後の「渋川 - 中之条」のみが記載されている公文書や参考文献類を信用するならば起点は「渋川」ということになるが、それらに「渋川中塚町」・「渋川町中塚」の駅名を否定する記述はない。
    原書類から作成された印刷物は、誤記・誤植の可能性を捨てきれない。一般の書籍やパンフレット類に至っては、誤記・誤植はもとより事実誤認の可能性すらある。ともあれ、根拠が確実な資料が提示されるか発見されない限り、延長開業当初の起点の駅名として「渋川」・「渋川中塚町」・「渋川町中塚」のいずれが正しいか断定する事は困難である。
  10. ^ 『遠い日の鉄道風景』89頁に掲載されている東京電燈時代の普通乗車券にこの停留所名(田ノ入・下市城のほう)が表記されている。

出典

  1. ^ 『電気事業要覧. 第14回』(国立国会図書館デジタルコレクション)2016年9月30日閲覧。
  2. ^ 『群馬県吾妻郡誌』追録205 - 207頁。
  3. ^ 『日本全国諸会社役員録. 明治44年』(国立国会図書館デジタルコレクション)2016年9月30日閲覧。
  4. ^ No.442「吾妻への馬車鉄道計画に付き町会招集請求 明治43年3月18日」No.443「日陰道鉄道馬車布設出願許可意見書」『渋川市誌 第6巻 歴史資料編 近代・現代』504 - 505頁。
  5. ^ 大正6年3月17日付上毛新聞『中之条町誌 第1巻』1199頁。
  6. ^ 『遠い日の鉄道風景 』87頁。
  7. ^ a b c d e 宮田憲誠 『遠い日の鉄道風景 - 明治のある日 人車や馬車鉄道が走り始めた』85頁。
  8. ^ a b c 宮田憲誠 『遠い日の鉄道風景 - 明治のある日 人車や馬車鉄道が走り始めた』87 - 89頁。
  9. ^ a b c d e 和久田康雄『私鉄史ハンドブック』57 - 58頁。
  10. ^ a b c 鉄道院年報. 明治42年度(国立国会図書館デジタルコレクション)2016年10月5日閲覧。
  11. ^ 鉄道院年報. 明治44年度2016年10月5日閲覧。
  12. ^ a b 「群馬鉄道馬車が県知事宛に出した開業届」『写真で見る東武鉄道80年-明治大正昭和三代の変遷-』44頁。
  13. ^ a b 「乗車券の今昔」『写真で見る東武鉄道80年-明治大正昭和三代の変遷-』170 - 173頁。
  14. ^ a b 篠田尚久「高崎澁川間鐡道馬車發着時間表」(画像037)『高崎繁昌記』栄林堂、1897年。(群馬県立図書館デジタルライブラリー)2016年9月30日閲覧。
  15. ^ a b 松平篤郎「電氣鐡道」(画像020)『高崎商工案内』高崎商業会議所、1917年。(群馬県立図書館デジタルライブラリー)2016年9月30日閲覧。
  16. ^ a b 小林茂「伊香保電車盛衰」43頁。
  17. ^ 鉄道省『鐡道省文書 第十門・私設鉄道及軌道・四、軌道・巻一・東京電燈(元吾妻軌道、群馬電力、東京電力)』(国立公文書館デジタルアーカイブ)2016年10月2日閲覧。
  18. ^ 渋川市公式ホームページ『町名表示事業』2016年9月30日閲覧。
  19. ^ a b 全国営業便覧/編 『群馬県営業便覧』(画像番号153) 1904年。(群馬県立図書館デジタルライブラリー)2016年9月30日閲覧。
  20. ^ 小林茂「伊香保電車盛衰」『レイル』No.10、43頁。
  21. ^ 「軌道営業廃止」『官報』1934年12月24日(国立国会図書館デジタルコレクション)2016年10月2日閲覧。
  22. ^ 「続餓多電盛衰記」21-22頁。
  23. ^ 『渋川市誌 第3巻 通史編 下 近代・現代』266頁。
  24. ^ 『小野上村誌』725 - 726頁。

参考文献

  • 『小野上村誌』1978年。
  • 『群馬県吾妻郡誌』1929年(1970年復刻、西毛新聞)。
  • 群馬県吾妻郡中之条町郷土誌』1919年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960661/226 国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 『渋川市誌 第3巻 通史編 下 近代・現代』1991年。
  • 『渋川市誌 第6巻 歴史資料編 近代・現代』1995年。
  • 『中之条町誌 第1巻』1976年、1170-1176、1186-1190、1198-1200、1431頁。
  • 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』 3 関東1、新潮社、2008年。ISBN 978-4-10-790021-0 
  • 生方良雄『昭和の路面電車 関東・甲信越編』2011年、173頁 - 昭和5年頃に渋川駅で撮られた電車の写真が掲載。
  • 小林茂「続餓多電盛衰記」『鉄道ピクトリアル』No.53 1955年12月号。
  • 小林茂「伊香保電車盛衰」『レイル』No.10、プレス・アイゼンバーン、1983年。
  • 東武鉄道広報部広報センター『写真で見る東武鉄道80年-明治大正昭和三代の変遷-』東武鉄道株式会社、1977年。
  • 和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、1993年。
  • 田村民男「群馬の水力発電史」七月堂、1979年、90 - 92頁。
  • 宮田憲誠 『遠い日の鉄道風景 - 明治のある日 人車や馬車鉄道が走り始めた』 径草社、2001年。
  • 和久田康雄『日本の市内電車-1895-1945-』成山堂書店、2009年。 
  • 才賀事件の前途』『大阪毎日新聞』1912年9月21日(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)。 

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