名子役にとは? わかりやすく解説

名子役に

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:15 UTC 版)

高峰秀子」の記事における「名子役に」の解説

1929年昭和4年9月家主である階下住人友達で、松竹蒲田撮影所俳優だった野寺正一案内養父に連れられて蒲田撮影所見学に行くことになったその日は野村芳亭監督の『母』の子オーディションの日で、秀子は養父におされてオーディションの列の最後尾に並ばされて飛び入り参加することになったが、野村監督思いがけなく選び出されヒロイン川田芳子演じ母親娘役出演することとなった10月1日付で松竹蒲田撮影所入社し、志げの活弁時代芸名そのままつけて高峰秀子名乗った12月1日封切られた『母』は、鶴見祐輔原作の母もの映画で、浅草では45日間のロングランヒットを記録し翌年にはアンコール上映されるほどの大ヒットとなった初任給35円で、まもなく住居鶯谷から撮影所近く荏原郡蒲田町蒲田移した。 たちまち重宝がられた秀子は、五所平之助監督の『大東京一角』、島津保次郎監督の『愛よ人類と共にあれ』、小津安二郎監督の『東京の合唱』などに出演し人気子役となる。時には男の子の役もやらされスタッフから「秀坊」のニックネーム呼ばれたまた、五所監督は秀子を養子にと考えていたが、志げの反対諦めたという。1931年昭和6年)、蒲田尋常小学校入学するが、徹夜撮影多かったためほとんど学校には通えなかった。1932年昭和7年4月明治座新派公演松風村雨』に借りられ花柳章太郎岡田嘉子共演。この公演の『満州国』にも溥儀幼年時代演じ、すでにうたわれていた天才子役の名を一層高めた1934年昭和9年)、作詞家藤田まさと可愛がられた秀子は、東海林太郎が『赤城の子守唄』の大ヒット記念して日比谷公会堂行った実演ステージ勘太郎役で出演。これで秀子を気に入った東海林養女にすることを熱望し、「歌とピアノみっちり仕込む」と説得、志げと東海林家に移る。東海林の秀子に対す溺愛ぶりは尋常ではなく、秀子を片時も離さず地方公演先にまで連れていくほどで、東海林家へ入る時の条件だったピアノと歌のレッスンお預けになり、撮影所にも通わないようになった一方、志げは無給女中がわりに働かされるという扱いを受け、それに耐えかねた秀子は志げを促し東海林家を出て大森アパート引っ越した。これに激怒した藤田東海林のために書いた妻恋道中」「鴛鴦道中」を新人の上敏に歌わせ、以降はほとんど東海林に曲を書かなくなった1936年昭和11年)、松竹撮影所蒲田から大船に移す。12歳の秀子は子役から娘役への転換期にあっていたが、同年五所監督メロドラマ新道』に田中絹代演じヒロインの妹役という大役抜擢される。田中からは実の妹のように可愛がられ鎌倉山にあった絹代御殿」と呼ばれる豪邸泊まり込んで撮影所通いをするようになった実生活では、函館大火破産した祖父の力松一家が秀子を頼って上京し千駄ヶ谷に家を借りて住まわせ、秀子の肩に9人の生活がかかることになった

※この「名子役に」の解説は、「高峰秀子」の解説の一部です。
「名子役に」を含む「高峰秀子」の記事については、「高峰秀子」の概要を参照ください。

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