各国及び各選手の温度差
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「FIFAコンフェデレーションズカップ2001」の記事における「各国及び各選手の温度差」の解説
FIFAが管轄するようになってからのコンフェデ杯は2年に1度、世界の勢力図を測るためのもう1つの世界一決定戦として一旦は位置付けられた。しかし、決勝まで進出するチームはわずか10日から12日の中で5試合を行い、試合間隔は基本的に中1日という、A代表によって争われる国際大会としては異例の過密日程や、当時は国際Aマッチデーが定められておらず(定められたのは2003年から)、大会の開催期間が欧州のリーグ戦日程と重なっていたこともあり、出場国のモチベーションが高くなく、一流選手が出場を見送ることも常態化するなど、およそ価値の高い大会とは見られていなかった。 今大会でも各国によって真剣度に違いが見られた。FIFAワールドカップ・フランス大会の優勝国として欧州予選が免除されたフランスは、今大会を重要視した。主力の多くがリーグ・アン(フランス国内リーグ)以外でプレーし、今大会と日程が重なる欧州各国リーグに所属していたが、ジダンやバルテズ以外は招集に成功した。また、リーグ・アンは開幕前だったので、残りの主力も呼ぶことが出来た。他に、FIFAワールドカップ・日韓大会の開催国としてアジア予選が免除された日本と韓国、当時主力の多くがプレーしていたリーグ・アンが開幕前で主力が出場出来たカメルーン、既に北中米カリブ海予選敗退が決まっていたカナダ、以上の5ヶ国が今大会を重視する一方、残りの3ヶ国は重視はしなかった。ブラジルは欧州クラブ所属の主力選手を招集せず、欧州ではリーグ・アンの選手や当時代表レギュラーでなかった選手、そして国内組を招集、当時レギュラーが定位置だった選手はヴァンペッタくらいで、2.5軍と呼ばれた。その結果、ブラジルは同組の日本にグループリーグ首位を譲り、大会自体も4位止まりとなる。オーストラリアも海外組の当時の代表主力の多くが欠場、メキシコは主力が怪我し、北中米カリブ海予選苦戦中(準決勝ラウンドでトリニダード・トバゴに続く2位通過)で、今大会直後にも最終予選の大事な試合を抱えるなど今大会に集中できる状況ではなかった。 日本代表においても、MF中田英寿の召集について所属クラブのASローマとの間に悶着があった。ローマはセリエAにおいて首位で優勝を争っていたため、中田の代表召集に否定的であった。交渉の結果、「グループリーグ3試合のみ」という条件で日本への帰国が認められたが、日本代表がグループリーグを突破すると、トルシエは中田に準決勝以降も出場するよう要請。日本サッカー協会とASローマとの話し合いの結果、準決勝まで参加を延長し、その後イタリアに戻ることになった。その準決勝では豪雨の中、中田自身が決勝点をあげ、日本代表初となる「FIFA主催のA代表世界大会の決勝進出」に導いた。トルシエは決勝にも中田の帯同を望み、準決勝の試合終了直後、豪雨のピッチ上で中田本人に直接説得を試みたが、ローマがこの期間中に優勝を決める可能性が高く、中田自身が「セリエA優勝」の瞬間に立ち会う事を望んだため、悩んだ末に、イタリアに戻ることを決めた(実際、ASローマは直後の試合で優勝を決め、中田は日本人初のセリエA優勝メンバーとなった。また自身もその試合に途中出場し、優勝の瞬間に立ち会うことが出来た。)。しかしこのチーム離脱の選択に対しトルシエは激怒、中田との間に軋轢が生まれる原因となった。トルシエは決勝戦直前及び直後の公式会見では批判しなかったが、その後、公式会見等でも公然と中田を批判するようになった。なお、実際は日本代表内で、準決勝直後トルシエは辛辣な発言を直接中田に浴びせ、ローマに戻る前に中田が挨拶に来た際にも他の日本代表選手たちを集合させた上で、その目の前で批判したという。決勝戦の前に、日本のエース中田英寿が日本代表を離れることに対して、決勝の相手であるフランス代表の選手たちは「世界大会の決勝戦前に、チームを離れるなんて信じられない」とコメントし、大会を取材に来た各国のプレスは「理解できない。なぜ、中田英寿を引き止めなかったのか」と話した。
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