古畑氏
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「古畑氏」の解説
家内騒動・縁組などにより格式のアップダウンを繰り返すも、6代目当主がおこした破廉恥事件で重臣の家柄から外れる 与板入封直後は大目付・中間組支配。その後、番頭に栄転(家禄120石)。家禄100石で家督相続が認められて連綿したが、元禄7年鉄砲足軽組頭となり、元禄14年江戸留守居役となる。小諸入封後の享保8年、用人・加判に抜擢された。しかし天明年間、家内騒動となり、出奔者を出して、藩内・家中を騒がせて失脚。家内不取締により減石・格式降格となる(持高130石から110石に減)。出奔者が次男であっても跡取りとなる男子であったと推察され、女子出奔事件よりはるかに責任が重かったようである。その後、藩主康満の女子が、他家に嫁ぎ離婚して出戻るということがあった。その出戻った女子(柏枝)と同居して、内縁の夫となった古畑氏5代目当主(古畑政右衛門直興・得法院)が出て有力となった。時に番頭職であったが、用人格連綿の家柄となり小諸惣士草高割成立時までに持高147石となった。用人・加判職となる前に、用人格の家柄となったとみられる。藩主康満の女子(柏枝)とは、寛政3年から寛政7年までの4年間で破綻した。一方の柏枝は、離別後しばらく小諸城中で暮らしたが、家臣取扱いとなり出家した。他方の古畑氏は享和元年、過去にした多額の借財が祟り破産状態となったと推察される一次史料が現存。この一件で謹慎となるが格式降格は免れた。6代目古畑忠兵衛直興が天保15年6月21日家督を相続。後に政右衛門と改称。5代目と6代目は、同時ではないが同姓同名を名乗ったこともあった。5代目は得法院と書かれていることがある。 9代藩主による改革後から、6代目古畑氏が懲戒処分を受け格下げになるまでの期間の持高は130石(用人格)。 6代目古畑氏は、弘化2年押合兼奏者、同4年番頭職となった。嘉永4年3月6日、当主の不行跡・非行により捕縛(ほぼ現行犯で身柄を拘束)される。同年4月16日、役職罷免・閉門・謹慎・持高減石・格式降格を命じられる。この事件(迷惑行為など)を詳述した多数の一次史料が現存。小諸家臣山村氏の母が古畑氏の行為を目撃して、騒いだのが捕縛につながった。武士として恥を知らない軽率かつ非常識で愚かな行動をしたので、一次史料の中には、自刃を期待(あるいは促す)とも解釈可能な文言もあるほどであった。嘉永5年1月13日に出仕が許されて給人席兼小姓の役職に就任。小諸騒動では、7代目古畑志津満直養が加藤・牧野求馬派に属して謹慎・閉門となるも、小諸家臣4名斬首に直接、赴かなかったためか入牢とはならなかった。明治3年6月19日赦免。維新期には士分上禄に列した。
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