用人(副将)・250石級家臣
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「用人(副将)・250石級家臣」の解説
用人は、家老の補佐役であるが、実務の実質的な責任者である。家老を大将として出陣したときは、その副将を勤める。小諸藩では用人の職権が非常に細かく定められていた。お目見得以上の家臣からの諸事の届け一切は、番方(軍事・警備部門)・役方(行政部門)問わずすべて用人が受理した。 小諸藩では用人職は、家老に次ぐ重臣で、用人の家柄の者から選ばれたが、家老の家柄の者が、家老職に就任する前職として、用人職に就任していた。用人の家柄でない者でも、能力や贔屓により用人職に抜擢されることがあったことは、家老職と同じである。 小姓の士は、与板在封期には、馬廻り(家老の配下)とされていた。年月不詳で、やがて用人の配下に移管となったが、一時的に小姓の士は、馬廻り(家老の配下)に戻されたときもあった。従って、小諸藩には、徳川幕府でいう御小姓組頭という役職は存在しないが、これに相当する職務を、用人・加判のうち、1名が兼帯していたことが、多かったことになる。 天保年間初期(8代藩主治世の末から、9代藩主治世の初期)を基準とすると用人の家柄としては、本間氏、佐々木氏、村井氏、倉地氏、河合氏、鳥居氏、古畑氏の6家があったが、もちろん時代により変遷がある。天保期に用人の格式にあった家は、倉地氏と古畑氏以外、すべて小諸藩家老職もしくは家老準席の就任履歴があった。与板在封当時、100石未満の家柄であった鳥居氏、村井氏などのように、数代をかけて班を進め、用人の家柄まで登ってきた家系もあれば、逆に与板藩主・牧野康道の治世では、100石を超える家柄であった小川氏、諏訪氏のように家の格式が、大きく下がってしまった家系、そして木俣氏のように、天保年間後期に、家老の家柄から転落して用人の家柄となった事例もある。 家老職に就任経験のある家であっても、家柄が用人格の場合は、9代藩主の治世から持高135石以下とされた。用人の家柄で、用人職に就任すると、持高と役職手当の合計で200石から215石が標準的であった。ほかに55石に相当する給人地分の収入があったので、実収入は250石を越えた。 須原屋茂兵衛蔵版や出雲寺和泉掾蔵版の武鑑には用人と側用人が、用人として一括記載されているが、格式や職権はまったく異なる。また藩主牧野氏の与板藩や、小諸藩には、客将というポストが設置されたり、客人分を「将」として扱った(あるいは遇した)とする一次史料は存在しない。
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