双羽黒騒動とは? わかりやすく解説

双羽黒騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 09:17 UTC 版)

安念山治」の記事における「双羽黒騒動」の解説

旭國黒姫山という立浪部屋の名力士相次いで引退したことで関取不在となり、部屋勢力下降していく中、立浪入門当初から大器と言われていた北尾光司部屋再興希望託した北尾入門前から恵まれた体格で、中学生ありながら立ち合い相手土俵下まで突き飛ばすだけでなく、高校生相手にしても負けなかったことで大会出場経験が無いために全国的に無名ありながら角界では有名だった。さらに、北尾指導者立浪部屋後援会所属している縁で、北尾毎年夏休み部屋泊まり込み稽古行い中学校卒業と同時立浪部屋入門した。その努力実を結んで1986年7月場所後に横綱昇進果たしたが、北尾にはこれまで幕内最高優勝一度も無いことから横綱審議委員会では慎重論多かった。それでも当時横綱千代の富士貢しか存在せず協会一人横綱状態を早期解決したかったことと、同時期に北勝海信芳大関昇進決定的で、北尾大関据え置くと「1横綱6大関」という非常にバランスの悪い番付となるため、北尾横綱昇進決定したその際に、春日野理事長から四股名を「双羽黒」(立浪部屋生んだ戦前代表する双葉山定次戦中から戦後代表する羽黒山政司の両横綱)と命名され史上最強横綱誕生大きな期待寄せられた。 しかし、1987年12月28日双羽黒ちゃんこ味付け巡って立浪大喧嘩し、仲裁入った部屋女将突き飛ばし、「二度と部屋には)戻らないと言って部屋飛び出す騒動発生させた。双羽黒友人宅へ逃げ込んでいる最中に、立浪日本相撲協会双羽黒廃業届を提出した。これを受けて同年12月31日臨時理事会開催し双羽黒廃業決議発表した。この騒動受けて世間からは「双羽黒破門にすべき」という声も出たが、双羽黒当時24歳青年だったことに対して温情的に廃業扱いとなったが、事実上破門であることは立浪後年になって認めている。 双羽黒騒動から2年後1989年アマチュア横綱山崎直樹日本大学)が立浪部屋入門した山崎1990年7月場所にて貴闘力忠茂との取組合計36発に及ぶ張り手合戦繰り広げるなど闘志全面に出す力士として活躍する山崎入門によって部屋自宅8階ビル移転し山崎が「大翔山」と改名し関取昇進を果たすと、双羽黒廃業騒動によって落ち込んだ部屋活気盛り返したその後大翔鳳昌巳智乃花伸哉大日ノ出崇揚といった、後に1990年代代表する力士相次いで入門した

※この「双羽黒騒動」の解説は、「安念山治」の解説の一部です。
「双羽黒騒動」を含む「安念山治」の記事については、「安念山治」の概要を参照ください。

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