原 昌胤(はら まさたね) ????~1574
原昌胤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/16 07:34 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 享禄4年(1531年?) |
死没 | 天正3年5月21日(1575年6月29日) |
別名 | 昌勝(別名) |
戒名 | 朝原 |
官位 | 隼人佐(隼人佑) |
主君 | 武田信玄→勝頼 |
氏族 | 美濃土岐氏庶流原氏 |
父母 | 父:原昌俊 |
子 | 昌栄、昌弘、貞胤 |

原 昌胤(はら まさたね)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。武田二十四将の一人。
生涯
原昌俊の嫡男として生まれる。昌俊・昌胤の原氏は美濃土岐氏の庶流といわれ、武田家中には足軽大将の原虎胤がいるが、虎胤は千葉氏一族の原氏の出自で別系統であるという。
『甲陽軍鑑』に拠れば天文19年(1550年)に家督を継ぎ、陣馬奉行を務め120騎を指揮したという。
初見文書は弘治2年(1556年)11月で、信濃侵攻における甲斐衆小池氏の下伊那出陣に際した証文に名が見られ、信玄側近として朱印状奏者として名前が確認される。永禄4年(1561年)の西上野侵攻においては跡部勝資や曽根虎長、土屋昌続らとともに上野国衆への取次を務めており、昌俊は一之宮貫前神社や高山氏、小幡氏、高田氏らの取次を担当しており、永禄10年(1567年)の下之郷起請文においては上野国衆からの起請文を担当している。
駿河侵攻において永禄12年(1569年)7月、今川方の富士氏が籠城する大宮城は開城した。昌胤は市川昌房とともに富士山本宮浅間大社や静岡浅間神社などの寺社支配を行っており、また大宮城周辺の支配に関わっていたため大宮城の城代を務めていた可能性を指摘するものもある[1]。ほか、朝比奈信置や松井宗恒との取次も務めている。
ほか、甲斐国内の郷村に対する諸役免許や軍役動員などの朱印状では山県昌景とともに名前が見られ、争論の裁許状など訴訟関係文書において名前がみられる。
時期・経緯は不明であるが一時期失脚し、元亀元年(1570年)以降・元亀3年(1572年)以前に北条家臣で臼井原氏麾下の完倉兵庫介が仲介し赦免されたという[2]。天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて戦死。
脚註
参考文献
- 丸島和洋 『戦国大名武田氏の権力構造』思文閣出版、2011年。ISBN 978-4-7842-1553-9。
- 平山優「原昌胤」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年
- 丸島和洋「原昌胤の赦免」『武田氏研究』30号、2004年
関連作品
関連項目
原昌胤(はら まさたね)
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「センゴク」の記事における「原昌胤(はら まさたね)」の解説
通称は隼人佐。武田家の武将、陣場奉行。長篠の戦いで一隊を率いるが、退却戦で織田軍の追撃を受けて討死した。
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「原 昌胤」の例文・使い方・用例・文例
- 彼は自分が現実的でないかもしれないことを認めながらも,その原則に固執した
- 原子力時代
- 彼は我々を勝利に導いた原動力であった
- 我々は失敗の原因を分析した
- 事故原因の公式発表
- にじが草原の上に弧を描いていた
- 彼の任務はその事故の原因を究明することだった
- 水素原子
- 地球上のものはすべて原子で構成されている
- 原子構造
- 原子力船
- 彼が事故の原因だと言われたが彼のせいにするのは間違いだとわかった
- 雑誌社への原稿書きやら園芸やら犬の散歩やらで,彼は毎日の時間の大半を過ごす
- 風が野原を吹き抜けた
- 原子爆弾
- 一面花で覆われた野原
- 軌道異常が原因で地球温度低下が生じたのではないかと考えられる
- 原因と結果,因果
- 金沢へ行くには米原で列車を乗り換えなくてはいけない
- その事故の一番の原因は何ですか
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