南部のレコンストラクション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 04:41 UTC 版)
「急進派共和党」の記事における「南部のレコンストラクション」の解説
レコンストラクション時代に、サムナーとスティーブンスに率いられた急進派共和党が次第に支配権を強めて行った。彼らは南部に対して厳しい対応を要求し、解放奴隷を強く保護し、アメリカ連合国のナショナリズムを完全に排除するように保証を求めた。1865年にリンカーンが暗殺された後、元タカ派民主党員だったアンドリュー・ジョンソンが大統領になった。 急進派は当初ジョンソンの強硬な話し振りを称賛した。1866年公民権法という重要法案にジョンソンが拒否権を使ったことで、ジョンソンに躊躇いがあることを見つけた急進派は、その拒否権を差し戻した。これは重要法案で大統領の拒否権を議会が差し戻した最初の機会になった。この公民権法は、アフリカ系アメリカ人をアメリカ市民とし、彼らに対する差別を禁じていた。それは連邦裁判所で裏付けられることになった。1868年に批准されたアメリカ合衆国憲法修正第14条とその平等権保護条項は、共和党の中道派と急進派が連衡して成立した。 1866年までに急進派共和党は解放奴隷の公民権を支持し、ジョンソンがそれに反対した。1867年までに解放奴隷に対する選挙権の条件を確定し、元アメリカ連合国支持者の多くには選挙権を制限した。ジョンソンは急進派共和党に対して幾つかの問題で反対したが、1866年の議会選挙で急進派が大勝し、ジョンソンが拒否権を使ったとしても、それを差し戻して法制化できるだけの勢力になった。南部での選挙を通じて、元アメリカ連合国の役人が、次第に解放奴隷、カーペットバッガー(南部に移ったばかりの北部人)やスキャラワグ(レコンストラクションを支持した南部人)の連衡に取って代わるようになった。急進派共和党は下院でアンドリュー・ジョンソン大統領を弾劾したが、上院では1票差で否決され、ジョンソンを大統領から追うことができなかった。 急進派共和党は南部のレコンストラクションを指導した。1868年には共和党の全会派がユリシーズ・グラントを大統領に当選させた。グラントは就任すると、サムナーに党から出て行かせた。グラントは連邦政府の権限でクー・クラックス・クランを解体させようとした。しかし暴動や民衆の騒擾でアフリカ系アメリカ人とその同盟者に対する嫌がらせや暴力行為が続き、20世紀初期にまで続いた。1872年までに共和党リベラル派はレコンストラクションが成功したのでそれを終わらせるべきだと考えるようになった。中道派の多くがこれに加わり、また元急進派の指導者だったチャールズ・サムナーも加わった。しかし、1872年の選挙では大敗して、グラントが容易に再選された。 南部の州では次から次に、リディーマー運動が共和党から支配権を奪い、1876年には、サウスカロライナ州、フロリダ州、ルイジアナ州の3州のみが共和党支配という状態になった。この年の共和党大統領候補ラザフォード・ヘイズは、これらの州が解放奴隷の権利を尊重すると約束する限り、「自治権」を回復させると発表した。1877年にヘイズが大統領になると、連邦軍を撤退させたので、これらの州もリディーマーが主導権を取った。 1872年リベラル派共和党と民主党は、急進派共和党が(特にグランド政権で)賄賂を受け取ることで腐敗していると論じた。これら急進派の対抗者は元アメリカ連合国の支持者全てに選挙権を回復し公職に就けるようにする恩赦を要求した。歴史家エリック・フォナーのレコンストラクション史では、時として財政的なごまかしが、賄賂として強要するのと同じくらい問題になったと指摘した。1872年までに急進派は次第に分裂するようになっていた。1874年の連邦議会選挙で、反急進派の民主党が議会を支配した。元急進派の多くが共和党のストールワート派(保守派)に加わり、多くの対抗者はハーフブリード派(中道派)に加わったが、彼らは政策よりも主に利益供与のあり方で異なっていた。
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