半鋼製ボギー客車
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「北海道炭礦汽船夕張鉄道線」の記事における「半鋼製ボギー客車」の解説
ナロハ100形→ナハ100形→ナハニ100形→ナハニフ100形(ナロハ100→ナハ100→ナハニ100→ナハニフ100) 野幌 - 栗山間の開業に際して1929年に日本車輌東京支社でナロハ100形として製造された2、3等合造客車で、屋根はシングルルーフ、台車はTR11、室内は2等ロングシート/3等クロスシート、ストーブ暖房、全長17000mm、自重24.5t、定員2等夏16人/冬13人、3等夏60人/冬56人で国鉄のオロハ30形と似た形態であった。 その後1934年に車軸発電機設置、1935年には2等廃止によりナハ100となり、さらに1936年に踏段の改修を受けている。また、1938年認可で夕張炭砿専用鉄道へ必要時に貸出されることとなったが実態は不明である。 客貨分離の進展により、手小荷物の取扱が必要となったことから付随車化されることとなり、1956年に荷物室を設置してナハニ100に改造され、この際塗装が茶色から上クリーム、下茶色に変更となり、定員夏60人/冬56人、荷重3.0t、自重24.68tとなった。 客貨分離をさらに進めるためにキハ250形およびキハ300形気動車の編成の中間にも組み込まれることとなり、気動車の付随車とするための車掌室の設置と電気回路の変更が1958年に実施されてナハニフ100となったほか、1959年に車体の更新修繕(ノーシル・ノーヘッダー化)、1960年にウエバスト式暖房2基を床下に設置がなされ、定員60人、自重24.9tとなった。また、のちに車体下部の色が濃赤色に変更され、気動車の間に挟んだDTD編成や気動車で牽引する編成などで廃線まで使用された。 ナハ150形→ナハニ150形→ナハニフ150形(ナハ150-153→ナハニ150-153→ナハニフ150-153) 平和砿(もと若菜辺砿)の再開により1937年に2両、日中戦争進展による増産に伴う旅客増により21号機とともに1940年に2両がいずれも日本車輌東京支社で製造されたもので、屋根はシングルルーフ、台車はTR11、室内はクロスシート、ストーブ暖房で、全長18400mm、自重25.14t、定員夏84人/冬76人で国鉄のスハ32形と似た形態であった。 客貨分離の進展により、付随車化され、1957年にナハ152、153が、1958年にナハ150が座席2区画分と出入台を荷物室に改造してナハニ152、153、150となり、この際塗装が茶色から上クリーム、下茶色に変更となった。その後1958年にはナハニ152、153にウエバスト式暖房2基を床下に設置し、定員68人、荷重2.0t、自重25.14tとなった。 客貨分離をさらに進めるためにキハ250形およびキハ300形気動車の編成の中間にも組み込まれることとなり、気動車の付随車とするための車掌室の設置と電気回路の変更が1958年および1961年(ナハ151のみ、この際に荷物室およびウエバスト式暖房2基を設置)に実施され、ナハニフ150 - 153となったほか、ナハニフ150にも1961年にウエバスト式暖房2基を設置している。 ナハニフ153は1964年に座席を転換クロスシートに交換され、定員90(座席60)人に変更された。また、のちに4両とも車体下部の色が濃赤色に変更され、気動車の間に挟んだDTD編成や気動車で牽引する編成などで使用された。 ナハニフ153が1968年に倉敷市交通局にキハ301、302とともに譲渡されたほかは末期まで使用された。 ナハニフ151が1972年5月に夕張市に寄贈され、夕張本町駅跡に開設された夕張市郷土資料館に14号機とともに保存され、1980年9月には石炭の歴史村・SL館に移設されて保存・公開されていたが、管理者の不在もあって、同館は2008年10月から休館中である。
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