半田大本営と野立所
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半田大本営は当時半田町北条にあり、小栗富次郎の所有であったが、1912年10月中野家の手に渡り、1915年4月中野産業合資会社の所有となった。1930年10月、半田大本営の建物は半田町が寄附を受け、半田町雁宿の水道用敷地内に移築・保有した。明治天皇の宿泊部屋を1934年5月に現在地(雁屋公園内)へ移築した。 乙川における野立所は、当時、俗に白山と呼ばれる丘陵上の官有地山林で、元は白山社の境内であった。大演習の翌年、乙川村小学校の林和三郎校長は、白山台上に「駐蹕御趾」と記した標柱を建て11月3日天長節(明治天皇誕生日)に建標式を行った。1896年林校長は国家的大行事がここで行われたことを後世に永久に残そうと建碑を提案し、村民有志から募った寄付金により1902年8月に「駐蹕御趾」碑を建立した。題字は勝海舟の書、碑陰は林校長の撰文である。1930年11月、明治天皇統監40周年を記念して「誓いの御柱」を建立した。塔の部分に五箇条の御誓文が記された。台座の部分は正面に「弥栄」、左回りに「天晴れ」「あな面白」「あな手伸」「あな明けおけ」の文字が記された。琵琶湖多景島の巨大な誓之御柱と同型で、その縮小版であった。 誓いの御柱は、東京帝国大学法学部教授の筧克彦の奇抜な神道思想に基づく柱塔である。誓いの御柱を建立した大日本弥栄会は筧の教え子たちが結成した団体で、会長は皇族落胤二荒伯爵家の二荒芳徳であった。当地域には1927年に知多支部が組織され、明治天皇が大演習を統監した地域のアイデンティティとして明治の精神に立ち返ろうという機運が生じていた。誓いの御柱は、1927年に半田町外成岩運動山で、1928年に知多高等女学校で建立された。続いて1930年に亀崎町(旧乙川村)で建立された。明治天皇統監40周年を記念して乙川白山の野立所に建立されたのである。全国で建立された7柱の誓いの御柱のうち3柱が当地域に集中していた。 雁宿における野立所は、半田町(当時)の西郊の標高40メートルの丘の上にあった。1913年、明治天皇の演習統監を記念して公園として整備された(現雁宿公園北エリア)。半田町有公園地の一角の「明治天皇駐蹕碑」は同年7月付けの股野琢の撰文・書によるもので、同11月に建立された。
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