大日本弥栄会とは? わかりやすく解説

大日本弥栄会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 09:47 UTC 版)

誓の御柱」の記事における「大日本弥栄会」の解説

水上死後、彼が主導してきた御柱建設運動は筧一門引き継がれた。その中で有力であったのが、弥栄会、後の大日本弥栄会である。弥栄会1927年4月29日天長節(現昭和の日)に結成された。1929年に大日本弥栄会へ改称するまでに、東京本部のほか、近畿東海に5支部を置くほどに成長していた。会長二荒芳徳理事長瀧本豊之輔、理事渡邊八郎就任した。二荒会長皇族落胤二荒伯爵家当主で、貴族院議員少年団理事長であった瀧本理事長は元逓信省官僚で、後に京都愛宕神社宮司転じた渡邊理事秩父宮御用掛で学習院教授であった。みな筧克彦門下であった筧克彦自身も後に顧問就任している。会の活動としては、誓の御柱建設のほか、機関誌いやさか』の刊行講演開催古神道体操皇国運動(やまとばたらき)」の普及歳に代わる弥栄いやさか)」の普及家庭用簡易神棚「彦社」の頒布身も心も清める手拭い御魂拭(みたまぬぐひ)」の頒布などがある。 1930年4月7日には閑院宮戴仁親王多景島行啓した。この行啓には滋賀県知事京都府知事以下両府県幹部随行した筧克彦と大日本弥栄会の二荒芳德瀧本豊之輔・渡邊八郎の3名も同行した。しかし大日本弥栄会と多景島との関係は公式記録上ここで途絶えてしまう。むしろ多景島御柱は大日本弥栄会の影響薄くなってから国家イデオロギー装置としての役割発揮する1937年には国民精神総動員一環として遊覧船寄港計画された。また彦根新設され磯田尋常小学校(現彦根市城陽小学校)の校歌謳われるようになった同校在籍する児童は船に乗って誓の御柱参拝したときの気持ち作文残している。 誓の御柱明記されている五箇條の御誓文までがはっきりと見えて来た。僕はこの時ふと学校校歌思い出して口ずさんでみた。「緑いやます多景島 朝日映ゆ御柱の 誓の御文これぞこの 我が学び舎教え――」そうだ。今僕目の前に明らかに見えている五箇條の御誓文これこそ我が学び舎教えなのだ。――そしてこれが明治大帝国民への最初御言葉なのだ。そう考えた時僕は自然に御柱に対して頭が下っていた。

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