大日本弥栄会
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水上の死後、彼が主導してきた御柱建設運動は筧一門に引き継がれた。その中で有力であったのが、弥栄会、後の大日本弥栄会である。弥栄会は1927年4月29日天長節(現昭和の日)に結成された。1929年に大日本弥栄会へ改称するまでに、東京の本部のほか、近畿東海に5支部を置くほどに成長していた。会長に二荒芳徳、理事長に瀧本豊之輔、理事に渡邊八郎が就任した。二荒会長は皇族落胤二荒伯爵家の当主で、貴族院議員、少年団理事長であった。瀧本理事長は元逓信省官僚で、後に京都愛宕神社の宮司に転じた。渡邊理事は秩父宮御用掛で学習院教授であった。みな筧克彦の門下であった。筧克彦自身も後に顧問に就任している。会の活動としては、誓の御柱の建設のほか、機関誌『いやさか』の刊行、講演の開催、古神道式体操「皇国運動(やまとばたらき)」の普及、万歳に代わる「弥栄(いやさか)」の普及、家庭用簡易神棚「彦社」の頒布、身も心も清める手拭い「御魂拭(みたまぬぐひ)」の頒布などがある。 1930年4月7日には閑院宮戴仁親王が多景島に行啓した。この行啓には滋賀県知事・京都府知事以下両府県幹部が随行した。筧克彦と大日本弥栄会の二荒芳德・瀧本豊之輔・渡邊八郎の3名も同行した。しかし大日本弥栄会と多景島との関係は公式記録上ここで途絶えてしまう。むしろ多景島の御柱は大日本弥栄会の影響が薄くなってから国家イデオロギー装置としての役割を発揮する。1937年には国民精神総動員の一環として遊覧船の寄港が計画された。また彦根に新設された磯田尋常小学校(現彦根市立城陽小学校)の校歌に謳われるようになった。同校に在籍する児童は船に乗って誓の御柱に参拝したときの気持ちを作文に残している。 誓の御柱に明記されている五箇條の御誓文までがはっきりと見えて来た。僕はこの時ふと学校の校歌を思い出して口ずさんでみた。「緑いやます多景島 朝日に映ゆる御柱の 誓の御文これぞこの 我が学び舎の教え草――」そうだ。今僕の目の前に明らかに見えている五箇條の御誓文これこそ我が学び舎の教え草なのだ。――そしてこれが明治大帝の国民への最初の御言葉なのだ。そう考えた時僕は自然に御柱に対して頭が下っていた。
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