大日本排球協会の設立
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「日本のバレーボール」の記事における「大日本排球協会の設立」の解説
1925年5月、三橋義雄を中心とする、坂本郵次、柳田亨、中川新右衛門、広田兼敏、原清吉などによって「関東排球協会」が設立された。第7回極東選手権直前の関東排球協会の設立は極東選手権選手選考などの委嘱を日本体育協会から得ようとする意図があったが、設立を急ぎすぎたため実現できなかった。 同年11月、多田徳雄、西川政一、渡辺逸郎、若林昌之助、山中一郎などを中心として「関西排球協会」が設立された。関西協会は、神戸高商の関係者によって占められており組織的に強固なものであった。同月第1回関西男子選手権大会、翌1926年、関西女子選手権を開催し活動は順調であった。 1927年5月24日、日本体育協会は協議会の席上で、バレーボールは全国的な統括団体を欠くため、第8回極東選手権予選会は従来どおり体育協会が行うと発表した。これに前後して、関西排球協会の多田代表は日本体育協会の薬師寺主事に統括団体設立の意思があることを伝えたが、具体的交渉にいたらないうちに前記の発表となった。同年7月31日、大阪市天満橋の野田屋食堂で会合が開かれた。東海からは、増田健三、西村正次、佐藤金一、関東からは薬師寺尊正、坂本郵次、柳田亨(3人は委任欠席)、関西からは多田徳雄代表理事、渡辺逸郎、江藤順蔵、西川政一が出席し、「大日本排球協会」が設立された。欠員であった会長には、1929年、平沼亮三が就任した。 1932年に「関東学生排球連盟」が、翌1933年に「関西学生排球連盟」が結成。1947年には、大日本排球協会が「日本バレーボール協会」と改称された。
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