大日本排球協会創立に尽力
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「多田徳雄」の記事における「大日本排球協会創立に尽力」の解説
1927年第8回極東選手権の予選会は大日本体育協会(日本体育協会)が行うと発表した。このため、多田(関西排球協会代表理事)は、体協の薬師寺主事に統括団体設立の意思あることを述べ、とりあえず全日本予選を大阪で開催すること、この大会を日本体育協会主催で関西排球協会後援として一任することを上京して直接交渉した。その結果、関東、東海、関西の3地区で予選を行い、その決勝を大阪で行うことを決めた。このときに統括団体の必要が切実に考えられ、多田は薬師寺体協主事、柳田享、坂本郵次の3氏と会合し、統括機関の設立を協議することにした。これによって大日本排球協会(日本バレーボール協会)暫定会則が起草され、その後も折衝を重ねて1927年7月、大日本排球協会創立に発展させた。会長・副会長は欠員として多田は筆頭理事となり、大日本体育協会協会に加盟、神戸に本部を置いた。同年、大日本体育協会の改組・新発足ではバレーボール界、唯一の理事に就任している。 極東選手権には陸上・バレーボール選手、役員として六回連続参加。神戸高商では数多くのバレーボールの名選手を育て、また初めての技術書「女子のバレーボール」等の著書を記し、日本バレーボールの草分けとして大きな功績を残した。 神戸高商には1955年まで在籍し、広島に帰郷。安田学園に招かれ長らく体育を教え、安田女子短期大学教授を勤めて1976年、87歳で亡くなった。
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