千代田と初月の撃沈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:13 UTC 版)
「ウィチタ (重巡洋艦)」の記事における「千代田と初月の撃沈」の解説
10月24日、ハルゼー大将は栗田健男中将率いる艦隊の進撃に備えてこれまで空母の直衛にあたっていた戦艦や巡洋艦、駆逐艦を以って第34任務部隊を編成し、司令官にウィリス・A・リー中将を任命した。ハルゼー大将は当初、第34任務部隊をサンベルナルジノ海峡付近に待機させたが、南を行く西村祥治中将の艦隊は第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)指揮下の砲撃部隊で対処でき、栗田艦隊が空襲で引き返し再び東進しても、これも第7艦隊の砲撃部隊で対処できるだろうと考え、当面の撃破目標を北の小沢治三郎中将率いる機動部隊に絞って北上した。翌10月25日、戦況はハルゼー大将のシナリオとは全く異なる様相を示した。栗田艦隊がサマール島沖に出現して護衛空母部隊を追いかけまわし、キンケイド中将の泣き言に加え太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将からの「第34任務部隊はどこにいるか、世界が訝っている」の電文を受けショックを受けたハルゼー大将は、空母部隊のうち1個任務群と第34任務部隊のうちの戦艦と軽巡洋艦、駆逐艦を南下させ、ウィチタは残る空母部隊とともに北上した。 午後遅く、ウィチタはニューオーリンズ(USS New Orleans, CA-32)、サンタフェ(USS Santa Fe, CL-60)、モービル(USS Mobile, CL-63)および駆逐艦群とともにローレンス・T・デュボース少将に率いられ北上を続けていた。その時、レキシントンの艦載機がサンタフェ近くを飛行し、「近くに空母が放置されている」と報告。16時25分、ウィチタは目当ての空母千代田を発見し、ニューオーリンズとともに砲撃を開始。サンタフェ、モービルもそろって16時42分ごろまで砲撃し、千代田は一方的に撃たれ続けた後、もうもうたる煙と火炎を発しながら16時55分に沈没していった。レイテ沖海戦でアメリカ海軍は日本艦隊を叩きのめし、空前の勝利を収めた。小沢中将は千代田救援のために艦艇を派遣していたが、そのうちの1隻である初月は、エセックス(USS Essex, CV-9)の夜間戦闘機によって発見されていた。ウィチタ、ニューオーリンズなどデュボース少将の艦隊は夜間戦闘機に誘導され、18時40分ごろに初月を発見し交戦を開始した。初月は単艦よく上手く立ち回ったが、やがて重巡洋艦からの砲弾が命中していった。ウィチタも19時10分ごろから射撃を開始。それでも、20時56分ごろに初月を撃沈するまで約2時間も費やされ、ウィチタではその最中に砲弾の断片で乗組員1名が負傷した。 レイテ沖海戦が終わると、ウィチタは再び第38.1任務群に加わわった。10月30日、サマール島東方洋上を行動していた第38.1任務群は神風特別攻撃隊葉桜隊の攻撃を受け、フランクリン(USS Franklin, CV-13)とベロー・ウッド(USS Belleau Wood, CVL-24)にそれぞれ1機命中して撃破したが、それ以外の攻撃はウィチタ他の対空砲火で阻止した。10月31日にウルシー環礁に針路を向け、11月2日に帰投した。ウィチタは11月中旬に再び第38任務部隊に加わってフィリピン攻撃のために出撃する予定だったが、補給の後にエンジン部が激しく振動する異常が見られ、調査の結果シャフトが折損してプロペラにもダメージがあることが分かり、高速航行は無理と判断されたウィチタは18日に部隊から外され、20日にウルシーに帰投した。第6巡洋戦隊司令官チャールズ・ターナー・ジョイ(英語版)少将は旗艦をウィチタからサンフランシスコ(USS San Francisco, CA-38)に変更。ウィチタは回航前最後の検査で3番シャフトの破損が確認され、2軸運転により11月27日にウルシーを出港。エニウェトクと真珠湾を経由し、12月9日にサンペドロに到着した。6日後、ウィチタはロサンゼルスにあるターミナル島(英語版)の海軍工廠に1945年2月8日まで入渠した。
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