初等学校、ギムナジウム時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:20 UTC 版)
「フランツ・カフカ」の記事における「初等学校、ギムナジウム時代」の解説
1889年9月、カフカは6歳でフライシュマルクトの小学校に入学した。父ヘルマンは息子を学校に行かせるにあたり、プラハにおいて多数の話者を持つチェコ語の学校ではなく、支配者階級の言葉であるドイツ語の学校を選んだ。この学校の生徒は主にユダヤ人で、カフカの担任教師は1、3、4年がユダヤ人、2年がチェコ人、校長はユダヤ人だった。カフカの送り迎えは料理女が担当したが、彼女は意地が悪く、幼いフランツに「家での悪さ」を学校の先生に言いつけると毎日のように脅かしていたという。カフカは4年間の修学期間を優等生として過ごし、またこの学校で終生の友人となるフーゴ・ベルクマンと出会った。 1893年春、入学試験を受けてプラハ旧市ギムナジウムに入学。商業を学ぶための実科学校ではなく、大学入学資格を得ることができるギムナジウムに進んだ。授業は3分の1をラテン語と古代ギリシア語の授業が占めており、カフカはここでホメロスなどの古典作品を習い覚えた。入学後3年間は優等生であったが次第に成績が落ち、1901年に受けた卒業試験(アビトゥーア)ではかろうじて「可」の成績で合格している。苦手な教科は数学であり、一方選択科目ではフランス語や英語を捨てて体育を取り、実技でボートを漕いでいた。上級生になってからは父にせがんで自前のボートを買ってもらうなどしている。同級生にはベルクマンのほか、後に著名な美術史家となるオスカー・ポラックがおり、彼らとは大学まで一緒に進んだが、ポラックとは大学時代の後半から疎遠になっていった。 ギムナジウム時代のカフカはスピノザ、ダーウィン、ヘッケル、ニーチェなどの著作に関心を抱き、また実証主義、社会主義に興味を持っていた(もっともこれは当時の一般的の傾向でもあった)。すでにギムナジウムの初学年の頃には将来作家になる夢を抱いており、そのことをベルクマンに語っている。ドイツ文学ではこの頃ゲーテ、クライスト、グリルパルツァー、シュティフターなどを読み影響を受けており、卒業の際にはドイツ語・演説演習として「ゲーテの『タッソー』の結末をどう解釈すべきか」というテーマを選んでいる。このときゲーテをテーマに選んだのはカフカ一人で、ゲーテに対しては批判的な意識を持ちつつも、大学を卒業した後も強い関心を抱いていた。
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